星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

創作︰3人の逆説的な笑顔

二人の少女がいた。花梨と美月二人の違いは先天的な特性のみであった


花梨は内臓器系に少しの障害があった。
美月は他人より少し知能指数が高かった。


花梨は何気ない日常を順風満帆に過ごしていた。しかし高校2年生のある日、内臓の弱さが彼女を病院に閉じ込めた。それは一年半の月日に及んだ。

彼女が病院から出たときには、足下に道標はなかった。
それでも彼女は自分の弱さを理解し、家族や医者や役所の力を借りて再び導きのレールを探すことに成功した。
実家ぐらしだが、週に1度の通院を続けながら無理のない範囲で事務の仕事をしていた。
苦しく、悲しく、泣きたくなることは多くあったが、彼女の弱さは輝きを放ち、その光に網膜を焼かれた一人の男が、傷だらけの腕で傷だらけの腕を掴んだ。
彼女が22歳の時だった。
通っていた病院で偶然知り合った年上の男だ。
その男も心に弱さを抱えていたが、二人手を取り合って精一杯生きた。
彼女も彼も一度死にかけたことがあり、命の大切さをよく理解していたからこそ、上手く支え合うことができた。
それからの彼女は幸福だったが、内臓の弱さから53歳で息を引き取った。

最後に見せた表情は笑顔だった。


美月は他の人間より賢かった。成績は優秀なまま、大学に進んだ。それでも多数の苦難を乗り越えた結果だった。
大学1年生のある日、自分の才能のなさを呪った。社会に貢献するにあたって、僅かな知能指数の高さは何の意味も持たないと悟ったからだ。
1000回の思考の末、962回は自分に価値がないという結論に達した。
傷だらけの心を癒やすため38箇所に貼った絆創膏は、無意味に剥がれ落ちていった。
露呈した傷と滲み出る血を見た一人の男が彼女の悲壮な思考を哀れみ、手を差し伸べた。
彼女は最初は手を跳ね除けた。自分を受け入れる理由がわからなかったからだ。
しかし賢い彼女は気づいた。男が自分に寄るのは性欲という動物的本能によるものだと。
彼と付き合い始めてそう時が経たないうちに、彼女は彼を刺し殺そうとした。11回目の非合理な交尾が終わったあとだった。
幸い男は死ななかったが、彼女は逮捕された。
彼女が20歳の時の出来事だった。
冷たい手錠が彼女の傷だらけの腕を包んだときに見せた表情は笑顔だった。


2年後、その男は病院で知り合った女性と付き合い、さらに6年後には結婚した。
男は妻の花梨に語った。猟奇的な女に刺し殺されそうになったとき、命の大切さを知ったのだと。
被害者意識に塗れた笑顔だった。

創作︰神様のなり方

他人に比べればしょうもない挫折、他人に比べればしょうもない才能、他人に比べればしょうもない存在価値、それらに苛まれた弱い青年は、

 

「人類なんか滅べ!」

 

と叫んだ。深夜3時に酒を買いにコンビニに行った帰りのことだ。周囲には人はいなかった。

 

下を向いた顔すら照らす淡く白い光に気づき正面を向くと、白い靄のような人間らしき者が立っていた。

青年にはその存在が神に感じられた。直感的に。

 

神は右手を上げ青年の方に向けると、その白く光る手は弓の形に変形し、即座に光の矢が射られた。

光の矢は真っ直ぐ青年に向かって飛び、矢先が青年の右眼を裂き潰した。

 

「神の目をあげるよ」

 

そう言って白い靄の人間は、光と矢と共に消え去った。

 

あまりの激痛に声も叫びにもならない青年の悶絶は、白い靄の人間が消えると共に消滅した。

しかし右眼に視力は戻らない。本当に潰されたらしい。

生来の右眼の代わりに、神の目が埋め込まれていた。

青年は地面に跪いて、歩道に敷き詰められた赤い煉瓦に向かって、憎しみを込めて言葉を吐き出した。

 

「なんなんだよ…なんなんだよこの世界は!

…いいからさっさと、滅んでくれよ」

 

天にも滅びの願望を伝えてやろうと、夜空と対面するため青年は空を仰ぎ、もう一度「滅べ」と憎しみを込めて言った。

 

青年の声が発せられると共に、彼の右眼は神々しく光り、白く輝く無数の剣が眼から生み出された。

 

その剣は次々と生成され、夜空高く、雲の上にまで放出され、四散し、放物線状に地上に降り注いだ。

 

青年の意識はすでになかった。

 

こうして青年以外の人類は滅んだ。

 

青年が目を覚ましたとき視界を占めた光景は、無数の剣が地面に突き刺さり連なる灰色の世界だった。

 

青年は自分が人類を滅ぼしたのだと理解した。正確には理解させられた。

 

大きな罪悪感に駆られた青年は立ち上がって、近場に刺さる剣を抜き、惑うことなく自分の腹に突き刺した。

 

しかし、なぜか痛くない。なぜか傷口はすぐ再生する。

 

神の目を介して力を得た青年は、死ぬことができない。

 

「罪悪感とは呪いの一種だ。最も危険な呪いと言っても過言ではない」

 

脳に響く声がした。

 

「誰か知らないが殺してくれ…許されなくていいから、殺してくれ…!でないと、どうにか、どうにかなりそうなんだよ!」

 

青年は地面に頭を擦りつけながら叫んだ。

 

「至極の罪悪感、それを消すには死ぬしかないだろう。だから君を殺せなくした」

 

「なんでだよ」

 

「呪いに縛られたまま、人類が滅びたこの世界でただ1人生き続けるんだ」

 

「呪い…?」

 

「罪悪感という呪いは、ヒトをヒトでなくす呪い。人間を欲望から背かせ、理性に縛り、生を放棄させる力がある。

十字架を背負い、行く末を観測していけ、何千年、何万年と。それが君の生き方だ。そうすれば、いずれ神となる」

 

「神…?」

 

「そう、いつの世も、こうして人は神になる」

 

 

 

心身問題の哲学史 20世紀~現代(主に20世紀)

19世紀までの機械論よりの心の哲学の流れから、20世紀になり現象に対する内観性(自分の精神活動を観察することで得る主観的な性質)と、客観的な観察による物質性(質量があり、五感で感じ取れる性質)に着目し、それらを直接因果的に結びつける説明の不備を指摘する議論が起こりました。機械論への批判ともとれます。

 

一例として「知覚の因果説批判」があります。

知覚の因果説とは、対象を知覚したとき、その対象の因果作用(原因と結果を促す作用)の結果として、その知覚は説明されなければならないというもので、一見常識的なことです。

例→猫(対象)が視界入った(原因)ら、可愛いと思った(結果)

ただし、知覚の因果説の特徴として、対象の因果作用の終点に知覚を認めるという立場があり、それはつまり、知覚を認めるのは心的現象ではなく、対象がもつ因果作用の結果だとして、心的現象を否定していることになります。

 

これに対する批判の焦点は、『意識現象を結果とする因果関係を、現代の学的知識の枠組みの中で設定することは困難である』という点にあります。

また、この批判の流れから、志向性(意識とは常に何者かの意識であるという性質)という現象学の概念に依って心的現象の物質還元性を拒否する論陣が多くの哲学者により張られています。

しかし同時に、「人工志向性」という可能性を指摘して、心の物質性、機械性を示そうとする哲学者も現れています。

 

最近では、コンピュータサイエンスの発展とともに、人工意識なんかが仮想され、計算主義(心による認知を計算による結果とする)も多大な関心を集めています。

 

19世紀中葉、心身問題は心の物質への還元論批判の洗礼を受けて、新しい局面を迎えます。多くの「同一説」がそれです。

同一説では、心と身体を因果的に連結せず、むしろそれらを同一なものの両面としてみます。明けの明星と宵の明星が同一なものの2つの現れにすぎない、というフレーゲの有名な例があります。

では心と身体が同一なものの両面だとして、その本性は何ものであるのか。そこで議論が分かれました。初期はその本性を「物」「身体」だと推定し、唯物論へ回帰します。

対して、唯物論的同一説の議論をさけて、多くの唯物論的ではない同一説が提案されています。その原型はラッセルの「中立的一元論」にあります。それは観念論(唯心論)にも唯物論にも依らない心身問題の解決法です。物理的でも心的でもない中間のものを仮定して、それを本質的な実在物として心身問題を考える立場です。

 

また最近では、ポストモダンの仮想現実という考え方の影響のもとに、心や物の実体を脱し、仮想的なものとして同一説を展開する議論が広範に起こっています。

坂本百大はこの非実体的一元を原事件と呼び、人間にとってアプリオリに与えられた、心的-物的という2種類の概念枠から構成された架空な一元と考える立場を提案しています。この立場は2種類の概念枠を前提とした二元論であり、デカルトの二元論を越えようとしています。

 

21世紀に入ると、もはや哲学史のソースが整理されていないため一介の学生にはなんとも言えませんが、生理学からの脳と心の解明(松果体の謎)、認知心理学による知覚の因果説を完成させる実験(対象からの刺激という光学的過程を逆算して刺激から対象の因果を求めるプロセスの研究)、計算主義の進展(シミュレーション仮説の提唱)、また一元論二元論それぞれの新たな提案・補完がなされているところかと思われます。

 

参考:哲学・思想事典 (岩波文庫)

心身問題の哲学史 ~19世紀

今日から、心の哲学、または相対論の哲学に焦点を当てて記事を書きたいと思います。

 

心身問題を扱うにあたってまずはそれを巡る哲学史をおさらいします。以下

 

 

心身問題(mind-body problem)とは、不可視の心と可視の身体との関係を哲学的に問う問題です。

その起源は紀元前に遡るほど問題意識されてきた問いですが、プラトンデカルトが転換点となると言えます。

 

 

プラトンについて

心と身体を分離する思想を最初に打ち立てました。霊魂は身体を支配する、そして死後も霊魂は存在し続けると主張しました。

その後、アウグスティヌスらがプラトンの思想の細部を議論を展開して埋めて行ったのです。

ここから一気に飛んで17世紀。プラトンの思想以後、大きな転換はなかなか訪れませんでした。それは(私たちからみたら)超自然的な思想、神秘的な態度が霧のように薄く、しかし確かに蔓延していたからといえます。一種の風潮に染まり、心身に関して確かな姿勢を持っていたともいえます。

そんな時代背景の霧が17世紀に払われました。霧払いの手は科学の進歩です。代表されるのは、古典物理学の礎を築いたニュートンの『プリンキピア』。これも17世紀に出版されたものなのです。

その時代に生き、心身問題に一石を投じたのがルネ・デカルトプラトンの次の転換点です。

 

 

ルネ・デカルトについて

デカルトは17世紀の科学的知見を背景に、物体と心的なものとの直接的な相互干渉を排して、両者を独立なものとし、分離しました。これが物心二元論です。

プラトン同様に心と身体を分離したわけですが、なぜデカルトが転換点になるかというと、一つに、その分離が物体のみで完結するニュートン的近代物理学の成立の可能性を約束するものだったからです。実際にその後、近代物理学は成立し発展していきました。

他方で、デカルトは大きな問題を残しました。心身の相関は自明のもののはずが、それを分離して人々を混乱させたことです。意志を持って人は行動に移る。そんな当たり前のことが否定されてしまったからです。

この問題が以後の心身問題の哲学の発展を促しました。バラダイムの転換と言われる所以です。

しかし聡明なデカルトはこの問題に自分自身気づいており、松果腺説という解決策を提案しましたが、これは後に大脳生理学によって否定されています。

否定こそされど、精神と心が脳にあるという先見性はその後の心の哲学に影響を与えたという点で評価されています。

 

デカルト以後、二元論の研究と批判、すなわち心身は相関するのかという問いに基づいた方向で心の哲学は進展していきました。大きく3つの説があります。

 

①相互作用説

心と身体とは互いに相互作用を行うことができるという説。デカルトは心身の「直接的な」「相互交渉」を否定しましたが、「因果的な」「相互作用」という立場をとっていたので、デカルト物心二元論の研究と発展として生まれた説です。

 

②随伴現象説

心的現象は物的現象に随伴して生起する現象であるとみる説。これはハクスリーが有名です。心的現象を物的現象の随伴とみなすことで、心的現象を物的現象に内包しました。心と身体に相互作用はなく、ただ随伴するのみなのです。

 

③平行説

心と身体の間には平行関係があるのみだとする説。この説はライプニッツが有名です。心は心、身体は身体とのみ相互作用し、心と身体が相互作用しているようにみえるのは、予定調和によるみかけの作用にすぎないというものです。

 

難しいですが、デカルト以後は以上の3種に大別されます。

しかしこの時期は近代科学の急速な発展とともにあり、心身問題も唯物論に傾きます。それは、人間機械論まで打ち出されるほどに。

 

この後は科学の発展とともに人間機械論を推し進める形で心身問題は発展していきました。

と同時に、大脳現象を原因として心の現象が結果として起きるという随伴現象説が唯一の解決法とみなされるに至りました。

随伴現象説を補強する発想としては、20世紀中葉、ノーバート・ウィーナーのサイバネティックスがあります。サイバネティックスは制御工学と通信工学を融合させたもので、生理学をも、すなわち視野を通信と制御というシステムで捉えるなど、人間の精神的活動の機械性を支持しました。

分析哲学による心の難解さの示唆

私と他者は、知覚において同じ視点状況に立てば同じかもしくは近い景色を見ることができる。

また、私と他者は、感覚において同じ身体状況になることによって同じ感覚を体験できる。

しかし、必ずしもそうではない。

私たちは同じ対象に様々な感情を抱く。ある映画には様々な感想がつく。

見ているものは同じ、視力などの身体状況も原因とは考えられないこの感情の差異はなんなのだろうか。

あるいは、ルビンの壺のように2通りの見方ができる絵を見たときの知覚の差異はなんなのだろうか。

 

ルビンの壺を例にとると、その反応は偏見をなくす場合

「壺が見える!」

「え!?人の顔に見えるよ!」

といった会話になるだろう。

 

「○○<が>見える」    と

「○○<に>見える」    の、がとにの違いは何か?

 

「壺が見える」とは、対象として壺が視覚的に見えていることの報告であり、それは「壺がある」ということも含意している。

「人の顔に見える」とは、対象として人の顔は見えないが、人の顔のような何かが見えているという世界の見え方の報告だ。知覚報告ではない。この点は問題である。

「が」と「に」では意味は大きく異なる。このように、それぞれの言い方は、壺と顔のそれぞれが属す意味規則=文法のもとに扱うということを指す。

言い換えるならば、ある意味規則=文法において明確になるのは対象と他の対象との内的関係であり、捉え方の違いである。

 

もう少しわかりやすく言うと、「壺が見える」とは壺という対象の報告で、捉え方は一つだ。これを単相状態という。

対して「顔に見える」とは、顔に見えると同時に他にも見える可能性も含んでいる。それは対象の報告ではなく、見え方の報告であり、ある意味(文法)を含む。これを複相状態と呼ぶ。

そして複相状態のときのみ、すなわち他の捉え方の可能性が意識されるときのみ、相貌すなわちアスペクトの違いが問題になる。

 

単相状態は日常的に起こる。しかし複相状態は日常的にはなかなか考えにくい。ただ、他者との、あるものを見たときの捉え方、感想、感情、意味の違いを考えれば例はいくらでも出てくる。

ゲームの捉え方は、退屈なもの、頭を悪くさせるもの、楽しいもの、面白いもの、暇を潰してくれるもの、など色々ある。

 

他者がどのような意味をもってそれを捉えているかを理解することはできない。万物に対してどう意味を与えているかを知ることはできない。

そしてその「意味」が心に刻まれているのだとしたら、心を知ろうとすることがどれほどの難題かわかる。

心の根底には意味錯乱が生じている。他者は覗き込めぬ内界のことではなく、私とは異なる意味秩序を持っているのだ。

眺望論

前回の続き

 

知覚は複眼的で不完全なものである。知覚対象は視点状況によって人により異なり、ゆえに観察が可能。カメラでも使って共有すれば良い。

感覚は単眼的で完全なものである。寂しいという感情は自己完結していて他者から観察不可能。原因はわかっても、その人がどのくらい寂しいのか、他者は自分の経験から推測することしか出来ない。

この完全不完全性が知覚と感覚の境界となって、二元論に行き着いてしまった。

 


しかしこの二元は統合可能である。鍵となるのは「見えているのに見えていないもの」

 


そもそも知覚と感覚は共に身体状況に依存している。身体は知覚と感覚の母体であり、発生源である。

 


そんな独自性をもつ自分の身体を自分で見ることが出来るか?と問われると、普通にYesと答えられるだろう。

 


では自分の眼球を直接見ることはできるか?と問われるとどうだろう。

鏡越しでしか見ることができないと考えるのが普通だ。

しかし、私は自分の眼球を見ている。そう、今も。

 


光の反射を網膜が受け取りものが見える。その先入観を捨てよ。

暗闇では暗闇が見える。そこに光はない。

そしてその暗闇を眼球の表面を通して見ている。さらに言えば、視神経、大脳をも通してみている。

外の世界へと広げれば、暗闇で暗視スコープを使って見たとき、それは世界だけでなく暗視スコープも見ていることになる。

このように、「何か」を通して見たとき、その「何か」も見えているのである。

 


これを「見透かし」という。

 


暗闇のように、透明も見えているのだ。透明が不透明化したときに初めて人は見透かせなくなる。

世界の眺めはこの見透かしの構造を持っている。

 


この見透かしの構造を使うと、知覚と感覚の共通性と独自性が見えてくる。知覚と感覚はどちらも神経と脳を直線的に繋ぐ透明の線の先にある。知覚はその先に知覚対象があり、感覚は対象までの線が不透明化している。

ここでいう透明とは、普段私たちが見透しを意識していないということだ。知覚において、見透しの透明線はそこにあるが物理的に見えなく、意識もされない。

そして不透明とは、意識するかしないかすらの問題にもならない、無のような状態を表す。感覚では、透明線は神経から先の世界へと伸びない。

 


つまりは知覚とは見透かし線が透明化して世界に広がり、感覚とは見透かし線が不透明化して世界に広がっているという性質を持つ。

そして見透かし線はどちらも脳から伸びる。

どちらも出発点は同じなのだ。

 


感覚において見透かし線が不透明化して世界に広がっている、とは感覚の原因となる対象と身体に媒介するものがないとも言える。

例えば、映画と自分の感情の間には線はないが、感情は世界の彩を変える。

この、見透かしの線があるかないか、そこが知覚と感覚の独自性を保つ。しかし同時に見透かしの線という共通するものを媒介としているため、二元論は否定される。

 

 

知覚は各々が線を持っているため各々の見方ができ、その中で各々の見方の確認ができる。

A「狸が見える」

B「猫に見える」

C「よく見てごらん。あれは犬だ」

 


感覚は線が不透明化しているため確認ができない。

A「脚が赤く腫れて(対象)痛い(感覚)」

B「ほんとだ赤い(第三者による観測)、痛そうだね」

A「とても痛いんだ」

B「でも僕にはどのくらい痛いのか想像がつかない」←感覚は観察不可能、線の不透明化


以上2つの状況から、知覚は世界の眺めとして共有でき、感覚は共有できない独自の世界の眺めであり、両者は見透かしの線という共通性質を持っていることがわかる。

 


そうして、知覚と感覚の空隙と、その空隙を埋める二元論の否定から、知覚と感覚は世界の眺望という点で、知覚は感覚に含まれ、感覚はまた知覚に含まれるという構造が生まれた。


これが眺望論の概要である。

 

 

しばらく知覚と感覚についての哲学が続きましたが、この学びを元に「幻覚」について考察していきたいと思っています。

知覚と感覚の境界が行き着く二元論

塾の生徒全員分のテスト対策プリントを作ってへとへとながら、アドレナリンかドーパミンか、神経伝達物質の活性化が記事作成の原動力となったようで、連日の投稿です。

しかし印刷機は難しいです。今日冊子として印刷する方法を学びました。これで製本ができるぞ。

では以下どうぞ。

 

前回の記事では、私と他者の共有感覚が同じかどうかについて議論することは内容のない議論であって、知覚と感覚の共有するところは感覚が私秘性をもつことから断絶されているという意味で、共有性質は空虚だと結論づけた。

https://chili-jgn.hatenablog.com/entry/2019/09/01/%E7%9F%A5%E8%A6%9A%E3%81%A8%E6%84%9F%E8%A6%9A%E3%81%AE%E5%85%B1%E6%9C%89%E6%80%A7%E8%B3%AA%E3%81%AE%E8%99%9A%E6%A7%8B%E6%80%A7

 

今回はその空っぽな隙間を埋めていき、知覚と感覚を近づけつつも、その境界を探りたいと思う。

その前に空虚と境界の違いについて軽く触れるが、空虚は空間をもつが境界は連続的で線引きされたものである。その違いに最初に把握してもらった上で以下を読んでもらいたい。

 

 

まず、知覚と感覚の大きな違いとして「知覚まちがい」と「感覚まちがい」を挙げることが出来る。

知覚まちがいとは、見間違えがわかりやすいだろう。猫だと思ったら犬だった、のような間違えだ。

感覚まちがいは、知覚と違い文脈的に成り立たない。「痛みを間違えた」や、「疲れを間違える」とは言わない。

何故かと言うと、知覚は世界記述であり対象に対する志向性があるため確認が可能で間違いを発見できるが、感覚は世界記述であるものの(※感覚は余韻が世界風景を変えるという点で心的現象ではなく世界現象であるということを前提に)対象に志向性がなく他者から見て内容を持たないため確認不可能で間違いが起こらないからだ。

 

この説明は内容という言葉が日常的な意味とズレがあるためわかりにくいだろう。ゆえに現象学でいう「内容」の内容を簡単に説明する。

現象学的な内容はノエシスという。簡単に言うと、人が対象を意識するとき、内容を持つという。

そう考えると、知覚の場合は対象(例えば犬や猫)を意識しているために他者から見ても内容を持つが、感覚の場合は感覚に影響を与える対象はあるものの、その対象を意識することはなく、内界の感覚に志向がゆくため、対象を外のものだとしたとき、「私だけの」感覚は志向性がなく、客観的な真偽の確認が不可能といえる。

ゆえに感覚にはまちがいが起こらない。

これは私独自の感情の特権性という意味で独我論への道を切り開くことになり得るが、私たちは分かれ道にたどり着く。

 

独我論では内界しか存在しない。外界は私が見た私の視点だからだ。その意味で知覚と感覚に差異は生まれない。

ここで最初に言ったように、内界と外界の空虚な隙間を埋め、境界を探る哲学的実践をする。

 

重要なのは完全と不完全という言葉だ。

 

感覚は完全である。痛いときは痛いという感覚で完結する。

知覚は不完全である。見える対象は一部のみで一度に全てを見ることができない。ゆえに不完全だ。

たったこれだけで、一体性を持つかどうかという境界が得られ、内と外が区別される。これは私中心ではない他我論への道である。

 

しかし内と外で分断され明確な境界を持つと、今度は二元論に陥る。

最終的に私がどこに行き着きたいのか、実は明確ではないのだが、心の実在論という大きな目標に向かうため、二元論で結論づけてしまって良いのかと懐疑的に考える。

 

この二元論を野矢茂樹氏の言葉を拝借し、感覚が完結する単眼的なものであり、知覚が不完全な複眼的なものとすることで、単複世界二元論と称する。

 

次回はこの二元論で完結してしまっていいのか、それについて考え、記事にまとめたいと思う。

 

自分で書きながら過去の記事との矛盾に翻弄されているのですが、少しずつ直して方向に一貫性を持たせたいと思います。哲学は難しい…

 

読んでくれた方、本当にありがとうございます。