星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

心身問題の哲学史 20世紀~現代(主に20世紀)

19世紀までの機械論よりの心の哲学の流れから、20世紀になり現象に対する内観性(自分の精神活動を観察することで得る主観的な性質)と、客観的な観察による物質性(質量があり、五感で感じ取れる性質)に着目し、それらを直接因果的に結びつける説明の不備を指摘する議論が起こりました。機械論への批判ともとれます。

 

一例として「知覚の因果説批判」があります。

知覚の因果説とは、対象を知覚したとき、その対象の因果作用(原因と結果を促す作用)の結果として、その知覚は説明されなければならないというもので、一見常識的なことです。

例→猫(対象)が視界入った(原因)ら、可愛いと思った(結果)

ただし、知覚の因果説の特徴として、対象の因果作用の終点に知覚を認めるという立場があり、それはつまり、知覚を認めるのは心的現象ではなく、対象がもつ因果作用の結果だとして、心的現象を否定していることになります。

 

これに対する批判の焦点は、『意識現象を結果とする因果関係を、現代の学的知識の枠組みの中で設定することは困難である』という点にあります。

また、この批判の流れから、志向性(意識とは常に何者かの意識であるという性質)という現象学の概念に依って心的現象の物質還元性を拒否する論陣が多くの哲学者により張られています。

しかし同時に、「人工志向性」という可能性を指摘して、心の物質性、機械性を示そうとする哲学者も現れています。

 

最近では、コンピュータサイエンスの発展とともに、人工意識なんかが仮想され、計算主義(心による認知を計算による結果とする)も多大な関心を集めています。

 

19世紀中葉、心身問題は心の物質への還元論批判の洗礼を受けて、新しい局面を迎えます。多くの「同一説」がそれです。

同一説では、心と身体を因果的に連結せず、むしろそれらを同一なものの両面としてみます。明けの明星と宵の明星が同一なものの2つの現れにすぎない、というフレーゲの有名な例があります。

では心と身体が同一なものの両面だとして、その本性は何ものであるのか。そこで議論が分かれました。初期はその本性を「物」「身体」だと推定し、唯物論へ回帰します。

対して、唯物論的同一説の議論をさけて、多くの唯物論的ではない同一説が提案されています。その原型はラッセルの「中立的一元論」にあります。それは観念論(唯心論)にも唯物論にも依らない心身問題の解決法です。物理的でも心的でもない中間のものを仮定して、それを本質的な実在物として心身問題を考える立場です。

 

また最近では、ポストモダンの仮想現実という考え方の影響のもとに、心や物の実体を脱し、仮想的なものとして同一説を展開する議論が広範に起こっています。

坂本百大はこの非実体的一元を原事件と呼び、人間にとってアプリオリに与えられた、心的-物的という2種類の概念枠から構成された架空な一元と考える立場を提案しています。この立場は2種類の概念枠を前提とした二元論であり、デカルトの二元論を越えようとしています。

 

21世紀に入ると、もはや哲学史のソースが整理されていないため一介の学生にはなんとも言えませんが、生理学からの脳と心の解明(松果体の謎)、認知心理学による知覚の因果説を完成させる実験(対象からの刺激という光学的過程を逆算して刺激から対象の因果を求めるプロセスの研究)、計算主義の進展(シミュレーション仮説の提唱)、また一元論二元論それぞれの新たな提案・補完がなされているところかと思われます。

 

参考:哲学・思想事典 (岩波文庫)