星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

創作︰素粒子の幽霊 -中編-

光速を超えて宇宙の連関の中に死後生きる。何ができるだろう。何をすればいいのだろう。特に独自の死生観を持っていた訳では無い自分にとって、死後どうなろうがどうでもよかった。ただ受け入れるのみの心術を自然と持ち合わせていた。

 

そういえばと思い出す。大学院で学んだ量子もつれのことを。光速を超える、空間を介さない連関、物質同士の相互作用、これらは観測されていた事柄であり、今の自分に近い。というより、粒子として漂い、先程のようにコミュニケーションを取ることこそまさに量子もつれの体験だ。結局自分は一つの真実を知ってしまったに過ぎないが、今の自分にとってはそれだけのことと片付けられてしまう。

 

その真実とはこうだ。粒子となって世界を満たす人間含む動物の残骸は、粒子の塊として世界を創り出している。そして大きな生命体として宇宙は屍骸粒子の連関によって成立し、人間はただその生命体の細胞を見つけることすらできなかった。生きている存在も死んでいる存在も、同じ粒子から成るという単純なことに人間は気づかなかった。

 

その真実を知ったところで自分の役目だけはわからない。世界を理解しても、自分を理解出来ていなかった。そちらの方が大問題だ。

 

無事幽霊になった自分のすべきことは人を驚かすことでも、人を呪うことでもない。そんな力は持ち合わせていない。考えるべきは身体を持たなくなった自分に何が出来るかだ。

 

夢想する。空想に耽ける。無想する。想像を巡らす。いくら考えても現れない任務を考えるという任務。それが枷られた首輪ならば、一種の拷問だ。

 

そこで考える方向を地上へと向ける。つまりは人間だった頃の自分を思い出す。自分はどんな顔だったのだろう。自分はどんな顔をしているのだろう。死んだ自分の身体は遺されているはずだ。だから今は自分の顔がわかる。見えるのではない。わかるんだ。身体がどこにあるかは関係ない。どうせ火葬されたはずだ。身体がいつにあるのかも関係ない。どうせ時間の制約はない。

 

自分の顔は、阿呆の仮面を被った道化師のように、他人事に思えた。それが自分だと理解すれど、身体から放たれ、第三者目線で理解出来るそいつは、ああ、ただの身体に過ぎなかったんだ。思えば生きている間は、つまり身体の中に閉じこもっている間は、身体は道具として生活必需品のようなものだったんだ。今や中古品になったそいつは、どう考えようがただの身体に過ぎなく、今こうして意識できる自分がここにいる。そういうものなんだ。ここってどこかって?ここはここだ。

 

しかし身体全体のバランスが悪いな。足は短いし掌はでかい。なんてったって顔がでかい。鏡で見ていた自分より幾分か不細工だ。自覚はあったから、幾分かだけ。それは劣等感や嫌悪感を湧かせるようなものではない。身体は道具に過ぎなかったと今はわかるから。世間を生きやすくするものであったのは確かだが、死んでしまって、わかってしまった自分には、その無意義さだけが際立つ。処世の悲しみを知ってるかい、動く身体よ。全くペシミストな幽霊になったものだ。