星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

創作︰ドーナツの穴を食べるということ

登場人物

中学2年生の草加部 朱莉(14)くさかべあかり
大学生講師の松田 文博(24)まつだふみひろ


「それじゃあ授業始めっかー」
 ドーナツを囓りながら松田は先に席についている朱莉に声をかける。
「またドーナツ食べてる…見つかったら教室長に怒られますよ」
 朱莉は呆れた表情で迎える。
「バレなきゃ大丈夫」
「バラしますよ」
 松田は軽く脅されるが、
「えーと、とりあえず前回の宿題の確認からするか」
 一口齧られたドーナツを片手に何食わぬ顔で授業を始める。
「宿題はやってきたか?まあやってきただろうな、君優秀だし」
 しかし返事はなく、えーっと…と空気を濁らせ目を左右に泳がす朱莉がいた。何か言いたいことがあるようだ。
「忘れたのか?」
「いや、そうではなくて…先生に聞きたいことがあって」
  松田の顔を伺うようにして目が合う。
「言いにくいなら無理に聞かないけど、仕方ない、今言ってくれれば俺が買ってきたドーナツを一つやろう」
 10円玉を見つけた程度の小さなご褒美は朱莉の表情を明るくすることはなかったが、物で釣られる演出ができる状況は口を軽くした。
「せ、先生はどうせ恋愛の経験なんかないだろうからこんなこと言っても迷惑だろうし…」
配慮があるのかないのかわからない言葉の連なりが槍となって松田に刺さる。
「い、言ってくれるね…朱莉さんよ…。お、俺にだって…」
「あるんですか?」
「2ミリくらいある。ってそんなことはいいから早く聞きたいことやらを言いなさい」
 話題の転換を急ぐ。あるんだ…と小さく呟かれた一言は聞かなかったことにするらしい。
「実は同じクラスの男子に告白されたんですよ」
 中学生にはよくある話だと松田は気に留めなかった。
「それは良かったじゃん。初デートどこ行くかって?んなもんそこらへんほっつき歩けガキだし」
 恋愛とは無縁の生活をしていたため、不自然に口が悪くなる。
 そんな暴言を朱莉は首を横に振って受け流す。
「口悪いです。それに告白は断りました」
「それならそれでいいんじゃね?」
「よくないんです。私が聞きたいのは、その人に告白されたときになぜかとても怖く感じて…なんで恐怖を感じたのかいくら考えてもわからなかったから聞きたかったんです」
 机の上の筆箱をぼんやりの見つめながら言った。
「それはお前、ドーナツの穴を食べられそうになったんだ」
 突拍子もない発言が放たれた。
「はい?」
  松田は真剣な眼差しだが、朱莉の頭上には大きなクエスチョンマークができていた。
「いいか。世の中は領域で区切られている。家、学校、国境、パーソナルスペース、言い出したらきりがない。全て領域で区切られていて、人間は自分が所属していい領域の中でしか安心して過ごせない」
 松田は机の上にドーナツを置いた。
「今俺がここにドーナツを置いたことで、机の上にドーナツの穴ができた。ドーナツの穴という領域だ」
 朱莉は当然要旨が掴めず、ただ言葉を受け止めるだけだった。
「机の上に置いたらドーナツ汚くなりますよ」
 どうでもいいことが気になってしまったようだ。
「気にせんでいい。続けるぞ」
 コクリと頷き松田の言葉に耳を傾ける。
「誰かの領域に土足で踏み入ってしまうことを、ドーナツの穴を食べる、と言う」
「そんな慣用句初めて知りました」
「当然だ。今俺が作った」
「…」
 松田は構わず続ける。
「ドーナツをしっかり食べていけば穴は穴以外と繋がって調和される。そうせずにいきなりドーナツの穴に食いついてしまうと、どうなるでしょうか」
 親指と人差し指で持ったドーナツを朱莉に向ける。
「うーん、何も食べられないだけでは…?」
 ドーナツの穴から松田を覗き込む。
「そうだ、何も食べられない。でも何も食べられないだけじゃなくて、穴の密度が増し、圧力で内側からバラバラになる」
 松田はドーナツを再び机に置いた。
「は、はぁ…、話してることは頭では理解できるんですけど、いまいち飲み込めないです」
 朱莉はドーナツが膨張して破裂する様を想像しながら首を傾げた。
「ドーナツを心に言い換えてみよう。告白されたということは、告白してきた男子は朱莉に好意を寄せてきた。ちなみに好かれる出来事はあったか?」
「特に好かれるようなことは…帰り道が同じでたまに一緒に帰ってたからですかね」
 今後朱莉と朱莉を好きな男子は気まずい思いをするだろう。
「そもそも好かれる覚えがないというのが恐怖の一つの原因だ。納得いく理由なく好かれる、自分の知らないところで自分が注目されていた、そもそも相手のことを知らない、これは確かに怖いことだ。もちろん相手側には説明できる理由があるんだろうが、それは相手にとっての理由であって自分とは関係ない」
 朱莉は話を聞きながら頭を働かせ、視線を無意識に上へ向けていた。
「つまりもっと仲良ければ結果は変わってたかもしれないってことですか」
 天井に向けられている視線を真っ直ぐに戻す。
「そうかもしれないが、もっと重要なことがある」
「重要なこと?」
 松田はドーナツを一口齧り、咀嚼して飲み込む。同じ動作を繰り返してドーナツを全て平らげる。
「うまかった」
「何ですかいきなり。見てたらお腹減ってきたんですけど。後でくれるんですよね」
 松田のことを半目で凝視する。
「やるから大丈夫だって。重要なことは…」
 ポケットから取り出したティッシュで手を拭いてから、
「味だ」
 短く答えた。
「そ、その心は…?」
 朱莉の戸惑いが言葉に表れていた。
「もし自分がドーナツになったとして、味は美味いか不味いか答えられるか?」
 ティッシュをさらに取り出して、机の上のドーナツがあった場所を拭きながら質問した。
「そういう呪いの魔法ありそうですよね。自分の味…わからないけど、たぶん不味いです。いや、とても不味いと思います」
 自分のことを不味いと表現するのは一種の自己嫌悪だった。
「わかる」
 松田は同調するが、ここですれ違いが起きる。
「傷つきました。うわーん」
 両手で顔を覆って泣いたフリをする朱莉。
「あ、わかるって俺自身も自分のこと不味いと思ってるってことな」
「な、なるほど」
 何事もなかったかのように視線を松田の顔に向ける。
「そんな不味い自分のとこに来る人間なんて味覚が狂ったやつぐらいだろ?」
 告白してきた男子のことを悪く思うつもりはなかったが、臭いものに群がる蝿のイメージが反射的に想起された。
「そうですね。不味い食べ物に食いつきたくはないですもん。なんか自分で言ってて傷ついてきました」
 自分で自分を批判するのは少なくとも痛みが伴う。
「もちろん朱莉自身が本当に不味いわけじゃない。自分のことが不味いか美味いか、どう考えるかで受け止め方も変わるってものだ」
 松田は使ったティッシュを丸め、後で捨てるために机の隅にまとめる。
「なんか少しわかってきました。でも、好かれてこんなに怖くなるってことは私はどれだけ自己評価が低いんですか…」
「だったら味付けを変えればいいだけだ。そんなに難しいことじゃない」
「そうなんですかね」
 ドーナツで例えられたおかげか、確かに大して難しいとは思わなかった。
「そうだよ。もうだいぶ時間が経ったから早く授業始めるぞ」
「チッ…時間稼ぎが」
「これ以上稼がせないぞ。で、宿題は?」
 朱莉は下を向く。
「…やってません」
「はあ、じゃあドーナツは抜きな」
 松田は溜息をついた。
「そんなぁ…」
 空腹によってドーナツの価値を高騰させた朱莉にとって、その糠喜びは十分すぎる罰になった。
「次宿題をやってきたらやるから」
 大人げなく感じた松田は次の機会を与えた。
「次って…いつもドーナツ持ってますよね」
「好きなんだ」
「そんなに?」
「そんなに」
「どうしてですか」
「この世の中は領域で区切られているって言っただろ?つまりいくつものドーナツが重なり合って、色々な見えない領域が重なり合ってできているのがこの世界だ」
「領域ねぇ…」
 話が難しくなり、朱莉は机に突っ伏す。
「だとしたらドーナツを食べるってことは擬似的に世界を壊してるみたいで楽しいんだよ」
 はは、と笑いながら物騒なことを言う松田。
「先生は世界を破滅させる怪物にでもなりたいんですか」
「それも悪くないかもな」
「食べられてしまえっ」
この後もくだらない話は続いた。