世界記述で交わる私と他者
最近は塾講師のバイトに精をいれて多忙なため8月はあまり本を読めなかった。積読が溜まっていきます。
言言肺腑を衝くような本が積読の中に身を潜めていればいいのですが
では以下どうぞ
世界風景について以前紹介した。
ここからさらに議論を深めたいと思う。
眺めというものは常に私が中心となっている。他人にも他人の眺めがあるということは日常的な感覚としてあるが、たとえ私が他人と同じ場所に立っても、私の視点から見た眺望には変わりなく、他人の眺めを見ることはできない。よって、そのような日常的な感覚は懐疑的な思考から否定される。
そもそも視点とはどのようなものか。
私から見た風景は決して単視点的ではない。私は「物」を見るが、その「物」はそのとき見えている表面だけでなく、裏面や側面も含んでいる。
あるビルを見たとき、正面からは長方形に見え、太陽の光が当たっているが、その裏面である影の部分には太陽の光は当たらない。そしてその事を私は想像することができる。
しかし実際に見えている訳では無いから、その想像が見せる像は「虚想」から成る。
私の眺めには大きく分けて実際に見える実像と、虚想から成る虚像の2つがあり、その2つは視点移動によって多様に変化する。その様はキュビスムを連想させる。
眺めを見る私の頭の中にはキュビスム絵画が描かれ、キュビスム的世界了解を許している。
ここで、どうしても議論は他者を排除してしまうことに気づいただろうか。今のところ私は私中心の眺望にしか触れていない。
他者からのパースペクティブ(遠近、眺望)について話そうとするとき、パースペクティブは私のものでも他者のものでもなくなる。
なぜならパースペクティブとは、誰でもその地点に立てば見えるからだ。
机の上に本がある。それを複数人が同じ視点で見たとき、同じ本が、同じように見える。一見これは他者のパースペクティブを認めることになるが、そうではない。
物は変わらずそこにある。それを人は視点移動や遠近から独自の見え方を獲得する。それでも物はそこにあり、見ている物は「机の上の本」でしかない。パースペクティブの可能性は、結局のところ物の要請にほかならず、私たちは物に服従して受動的に物を見る。
この文脈において、パースペクティブは私のものでも他者のものでもなく、誰のものでもなく全ての人のものなのである。
では他者が登場する場面はどこか。
それは見えているものに対する知覚報告をするときである。
ある問題が起きたとき、友人は「前の画面が見えない」や「幽霊が見えた」などと、自分が見えたものを報告してくるだろう。
その知覚報告がなされると、私の知覚と友人の知覚が交わることになる。
知覚報告がなされるのは大きく2つに分けられる。
①ある視点からの事実を伝えるとき
「見て!あそこに富士山が見える!」
②問題を示唆して改善してほしいとき
「見えないんですけど」
ここで確認すべきことは、①と②のどちらもが世界記述だという事だ。
2つの状況を心的記述だとは考えられないだろう。両者とも自分の視点位置があり、その視点は外に広がり、世界風景を叙述する報告である。
私と他者は世界風景について言語的に交わる道筋が見えてきた。
独我論からの逃亡が始まる。