星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

時が「流れる」とは-私と時-

「時が流れる」とはどういうことか

そもそも流れは川の流れのように速さを表す言葉だから、それを時に当てはめるのはおかしい。

時が「流れる」とは比喩的な表現ということになる。

 

ではそのような比喩的な表現を用いて我々は時の何を伝えたいのかというと、時間が過ぎ去るとともに、現在が過去になり、未来が現在になるということを言いたいのだろう。

 

時の流れについて、野矢茂樹氏の著書から三視点の世界了解を用いて考えてみる。

 

無視点的世界了解

ここで、過去から未来まで、始まりから終わりまでの事柄が全て書かれた『宇宙年表』というものを想定する。

この年表が現実にあったとして、そのとき「時の流れはあるか?」という問を立てると、答えは「時の流れはない」と言える。

なぜならそれはただの年表に過ぎないからであり、速さも何も無いからである。

 

独今論(単視点的世界了解)

現実にあって宇宙年表にはないものがある。それは「いま」だ。

年表の出来事の羅列をみても、私たちの現在位置は書かれていない。宇宙年表は世界史的な年表であって個人史は無視されるからだ。

むしろ私たちは、宇宙年表の上で「いま」の連続を過ごしている。

今の「いま」、1秒後の「いま」、1時間後の「いま」、1年後の「いま」と、いまは移動する。

 

もちろん宇宙年表は現実にはないので、宇宙年表をとっぱらいリアルな世界に注視して「いま」を考える。

それでも「いま」の連続に変わりはない。

むしろ、過去のことは今からみた過去、未来のことは今から予測した未来といった具合に、私たちは「いま」という地点に依存してしまう。そこに時の流れは実在しない。結局今が世界の全てである。

この独我論的な発想を永井均氏は独今論と名付けた。

 

複視点的世界了解

人は今から過去を思い出すだけではなく、過去から過去を思い出すこともできる。

「昨日の時点であの出来事は2日前のことだった」

同様に未来から過去を思い出すこともできる。

「明日であの出来事は4日前のことになる」

 

独今論は「今から思い出された過去」という対象のみを視るが、複視点では「思い出している過去」「予想される過去」という主体的な視点で時の流れを考えることができる。

 

さらに、過去の意味を考えると複視点的世界了解は際立つ。

例えば、1週間前に熱が出たことを、今は「熱が出たなぁ」ぐらいのただの出来事にしか思わないかもしれないが、過去には「辛い助けて」と涙ぐむような悲惨な出来事だったかもしれない。

 

視点の切り替え、意味の違いという2つの複雑な要素が複雑に絡んだ複視点的な見方のとき、時の「流れ」は見えてくる。

 

時の流れ

人は自然と時の流れを受け入れているが、複視点的世界了解では主体的に時を感じていることになる。これは時の流れが私的体験であることを意味する。

時は私的なものなのだ。

こうなると、私が感じている時の流れと、あなたが感じている時の流れは同じだと言えなくなる。

私が「時の流れってどんな感じ?」と聞いてすぐ答えられる人はそうそういないだろう。いたとしたら私的言語のかなりの使い手で、かなり自分の世界に入り込める人ではないか。

そう、時の流れは私的体験であり、私的言語でしか記述されえない。時の流れに関して、私と他人は断絶され、時の流れの意味は自閉する。

 

楽しいときに時が早く進むと感じるように、精神展開薬により時間感覚が狂うように、人工衛星の時計は狂うと特殊相対性理論が示すように、時の流れは一様ではない。

 

時の感覚と物理法則がそれを物語っていた。

 

時が「流れる」という比喩表現は、流れが一定であることは実際にはありえないと、時の不安定性を無意識的に反映した文学的な表現だったのではないか。

 

そして、辻褄を合わせるために私達は時計を見て生きる。

私の時間とあなたの時間は違うから

 

今は午前5:35だ…、今日は午後に国語と理科の授業をしなければならない。