星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

知覚と感覚の共有性質の虚構性

ご存知でないとおり僕は塾講師のバイトをやっているのですが、定期テスト前ということで明日日曜日に塾を開ける許可を室長にもらい、生徒の自習スペースを確保した次第です。

テスト勉強頑張ってほしいですね。

ということで以下本題です。

 

 

知覚報告(世界記述)において私と他者が交わることは以下の記事に記述した。

https://chili-jgn.hatenablog.com/entry/2019/08/29/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A8%98%E8%BF%B0%E3%81%A7%E4%BA%A4%E3%82%8F%E3%82%8B%E7%A7%81%E3%81%A8%E4%BB%96%E8%80%85

 

しかし交わるのはあくまで知覚報告の場合であって、「痛い」「疲れた」「寂しい」といった感覚的な文脈、すなわち心的な報告ではどうなのか。

感覚について分析することでそれについて考えたい。

 

まず、知覚と感覚の違い触れたい。

知覚とは五感で感じ取ったことであり、それが目に見えたものでも臭いでも騒音でも、対象がそこにある限り、同じ場面(視点)に立つことによって共有できる事実だ。

対して感覚とは、おおよそ「心」が感じ取った自分の身体状況であり、共有不可能な事実といえる。

なるほど対象があればそれが全く同じ感じ方をできなくても、同じに「限りなく近い」視点に立つことによって同様な知覚を感じ取れるが、感覚はそうはいかない。

感覚には不動の対象がなく、いくら同じ痛みを共有しようとしても、全く同じ状況での実験が不可能な限り、同様の痛みが共有できたかどうか確認しようがない。

結局感覚において人は孤独な感受を強いられ、心的な内界で閉鎖している。

 

外界の対象に関する知覚は他者から見て内容を持つが、内界に閉鎖する感覚は他者から見て内容を持たない。

ここでまた独我論に走ってしまうが、ここではその否定を試みる。

 

知覚は外に広がり、感覚は内で完結する。これは正しいのだろうか。

 

感覚の中でも痛覚について考えてみよう。私に棘が刺さったとき、私の痛みは他人には経験できないのか?

できないと否定するのは簡単だ。私が感じた痛みは私の経験でしかなく、他人が感じた痛みもまた他人の経験でしかないからである。

しかし、できると肯定することも簡単である。私に棘が刺さったなら、他人にもその棘を刺せば「キリで刺されたような痛み」を共有できるからである。

私たちは痛みについて共通の経験と知識を持っている。サボテンに触ったときの痛み、火に触れたときの痛み、氷菓を貪り食ったときの頭痛、あらゆる痛みの種類において共通の感覚を持っている。

 

本当に共通の感覚をもっているのか?つまり、私の痛みと他人の痛みは同じ痛みなのか?という疑問がここで現れる。

それは私と他者が見る「赤」が本当に同じ「赤」なのか、他人が見る「赤」は私にとって「青」と呼ぶ色である可能性もあるのではないかという問題と似ている。

 

この痛覚と色の問題について私が解を与えるならば、こう答える。

「他人は経験していない事柄についてもそれを報告することがある。サボテンを触ったことがない人がサボテンに触ると痛いと子供に忠告するように、テレビでしか見たことがない一部のオーロラをエメラルド色と決めつけて一般化してしまうように。この虚無報告によって世界は成り立っている。なぜなら誰も痛みなど経験したくないから、虚無の痛みを語るしかないのだ。よって、議論できない問題である」

 

実際に痛みは「〇〇のような痛み」と比喩で表されるし、色という知覚認識において色はRGBの構成で無限近く作り出せ、人はある範囲の似た色を赤や青と名付けている。 

 

「およそ」でしか語りえない厳密な共通認識ができていない議論はとどのつまり行き着く先は循環し、どこかで途中下車して終わりになる。

 

よって、痛覚について共通感覚をもつかどうかという議論より、痛覚が内なるものなのか、外なるものなのか、それについて議論することこそ進展があり、感覚の境界線があるのかという問題について今後扱っていきたいと思う。

 

知覚と感覚の共通性を排除し、次は知覚と感覚の境界性について考えるということ

 

終わり、閉廷!