知覚と感覚の境界が行き着く二元論
塾の生徒全員分のテスト対策プリントを作ってへとへとながら、アドレナリンかドーパミンか、神経伝達物質の活性化が記事作成の原動力となったようで、連日の投稿です。
しかし印刷機は難しいです。今日冊子として印刷する方法を学びました。これで製本ができるぞ。
では以下どうぞ。
前回の記事では、私と他者の共有感覚が同じかどうかについて議論することは内容のない議論であって、知覚と感覚の共有するところは感覚が私秘性をもつことから断絶されているという意味で、共有性質は空虚だと結論づけた。
今回はその空っぽな隙間を埋めていき、知覚と感覚を近づけつつも、その境界を探りたいと思う。
その前に空虚と境界の違いについて軽く触れるが、空虚は空間をもつが境界は連続的で線引きされたものである。その違いに最初に把握してもらった上で以下を読んでもらいたい。
まず、知覚と感覚の大きな違いとして「知覚まちがい」と「感覚まちがい」を挙げることが出来る。
知覚まちがいとは、見間違えがわかりやすいだろう。猫だと思ったら犬だった、のような間違えだ。
感覚まちがいは、知覚と違い文脈的に成り立たない。「痛みを間違えた」や、「疲れを間違える」とは言わない。
何故かと言うと、知覚は世界記述であり対象に対する志向性があるため確認が可能で間違いを発見できるが、感覚は世界記述であるものの(※感覚は余韻が世界風景を変えるという点で心的現象ではなく世界現象であるということを前提に)対象に志向性がなく他者から見て内容を持たないため確認不可能で間違いが起こらないからだ。
この説明は内容という言葉が日常的な意味とズレがあるためわかりにくいだろう。ゆえに現象学でいう「内容」の内容を簡単に説明する。
現象学的な内容はノエシスという。簡単に言うと、人が対象を意識するとき、内容を持つという。
そう考えると、知覚の場合は対象(例えば犬や猫)を意識しているために他者から見ても内容を持つが、感覚の場合は感覚に影響を与える対象はあるものの、その対象を意識することはなく、内界の感覚に志向がゆくため、対象を外のものだとしたとき、「私だけの」感覚は志向性がなく、客観的な真偽の確認が不可能といえる。
ゆえに感覚にはまちがいが起こらない。
これは私独自の感情の特権性という意味で独我論への道を切り開くことになり得るが、私たちは分かれ道にたどり着く。
独我論では内界しか存在しない。外界は私が見た私の視点だからだ。その意味で知覚と感覚に差異は生まれない。
ここで最初に言ったように、内界と外界の空虚な隙間を埋め、境界を探る哲学的実践をする。
重要なのは完全と不完全という言葉だ。
感覚は完全である。痛いときは痛いという感覚で完結する。
知覚は不完全である。見える対象は一部のみで一度に全てを見ることができない。ゆえに不完全だ。
たったこれだけで、一体性を持つかどうかという境界が得られ、内と外が区別される。これは私中心ではない他我論への道である。
しかし内と外で分断され明確な境界を持つと、今度は二元論に陥る。
最終的に私がどこに行き着きたいのか、実は明確ではないのだが、心の実在論という大きな目標に向かうため、二元論で結論づけてしまって良いのかと懐疑的に考える。
この二元論を野矢茂樹氏の言葉を拝借し、感覚が完結する単眼的なものであり、知覚が不完全な複眼的なものとすることで、単複世界二元論と称する。
次回はこの二元論で完結してしまっていいのか、それについて考え、記事にまとめたいと思う。
自分で書きながら過去の記事との矛盾に翻弄されているのですが、少しずつ直して方向に一貫性を持たせたいと思います。哲学は難しい…
読んでくれた方、本当にありがとうございます。