眺望論
前回の続き
知覚は複眼的で不完全なものである。知覚対象は視点状況によって人により異なり、ゆえに観察が可能。カメラでも使って共有すれば良い。
感覚は単眼的で完全なものである。寂しいという感情は自己完結していて他者から観察不可能。原因はわかっても、その人がどのくらい寂しいのか、他者は自分の経験から推測することしか出来ない。
この完全不完全性が知覚と感覚の境界となって、二元論に行き着いてしまった。
しかしこの二元は統合可能である。鍵となるのは「見えているのに見えていないもの」
そもそも知覚と感覚は共に身体状況に依存している。身体は知覚と感覚の母体であり、発生源である。
そんな独自性をもつ自分の身体を自分で見ることが出来るか?と問われると、普通にYesと答えられるだろう。
では自分の眼球を直接見ることはできるか?と問われるとどうだろう。
鏡越しでしか見ることができないと考えるのが普通だ。
しかし、私は自分の眼球を見ている。そう、今も。
光の反射を網膜が受け取りものが見える。その先入観を捨てよ。
暗闇では暗闇が見える。そこに光はない。
そしてその暗闇を眼球の表面を通して見ている。さらに言えば、視神経、大脳をも通してみている。
外の世界へと広げれば、暗闇で暗視スコープを使って見たとき、それは世界だけでなく暗視スコープも見ていることになる。
このように、「何か」を通して見たとき、その「何か」も見えているのである。
これを「見透かし」という。
暗闇のように、透明も見えているのだ。透明が不透明化したときに初めて人は見透かせなくなる。
世界の眺めはこの見透かしの構造を持っている。
この見透かしの構造を使うと、知覚と感覚の共通性と独自性が見えてくる。知覚と感覚はどちらも神経と脳を直線的に繋ぐ透明の線の先にある。知覚はその先に知覚対象があり、感覚は対象までの線が不透明化している。
ここでいう透明とは、普段私たちが見透しを意識していないということだ。知覚において、見透しの透明線はそこにあるが物理的に見えなく、意識もされない。
そして不透明とは、意識するかしないかすらの問題にもならない、無のような状態を表す。感覚では、透明線は神経から先の世界へと伸びない。
つまりは知覚とは見透かし線が透明化して世界に広がり、感覚とは見透かし線が不透明化して世界に広がっているという性質を持つ。
そして見透かし線はどちらも脳から伸びる。
どちらも出発点は同じなのだ。
感覚において見透かし線が不透明化して世界に広がっている、とは感覚の原因となる対象と身体に媒介するものがないとも言える。
例えば、映画と自分の感情の間には線はないが、感情は世界の彩を変える。
この、見透かしの線があるかないか、そこが知覚と感覚の独自性を保つ。しかし同時に見透かしの線という共通するものを媒介としているため、二元論は否定される。
知覚は各々が線を持っているため各々の見方ができ、その中で各々の見方の確認ができる。
A「狸が見える」
B「猫に見える」
C「よく見てごらん。あれは犬だ」
感覚は線が不透明化しているため確認ができない。
A「脚が赤く腫れて(対象)痛い(感覚)」
B「ほんとだ赤い(第三者による観測)、痛そうだね」
A「とても痛いんだ」
B「でも僕にはどのくらい痛いのか想像がつかない」←感覚は観察不可能、線の不透明化
以上2つの状況から、知覚は世界の眺めとして共有でき、感覚は共有できない独自の世界の眺めであり、両者は見透かしの線という共通性質を持っていることがわかる。
そうして、知覚と感覚の空隙と、その空隙を埋める二元論の否定から、知覚と感覚は世界の眺望という点で、知覚は感覚に含まれ、感覚はまた知覚に含まれるという構造が生まれた。
これが眺望論の概要である。
しばらく知覚と感覚についての哲学が続きましたが、この学びを元に「幻覚」について考察していきたいと思っています。