分析哲学による心の難解さの示唆
私と他者は、知覚において同じ視点状況に立てば同じかもしくは近い景色を見ることができる。
また、私と他者は、感覚において同じ身体状況になることによって同じ感覚を体験できる。
しかし、必ずしもそうではない。
私たちは同じ対象に様々な感情を抱く。ある映画には様々な感想がつく。
見ているものは同じ、視力などの身体状況も原因とは考えられないこの感情の差異はなんなのだろうか。
あるいは、ルビンの壺のように2通りの見方ができる絵を見たときの知覚の差異はなんなのだろうか。
ルビンの壺を例にとると、その反応は偏見をなくす場合
「壺が見える!」
「え!?人の顔に見えるよ!」
といった会話になるだろう。
「○○<が>見える」 と
「○○<に>見える」 の、がとにの違いは何か?
「壺が見える」とは、対象として壺が視覚的に見えていることの報告であり、それは「壺がある」ということも含意している。
「人の顔に見える」とは、対象として人の顔は見えないが、人の顔のような何かが見えているという世界の見え方の報告だ。知覚報告ではない。この点は問題である。
「が」と「に」では意味は大きく異なる。このように、それぞれの言い方は、壺と顔のそれぞれが属す意味規則=文法のもとに扱うということを指す。
言い換えるならば、ある意味規則=文法において明確になるのは対象と他の対象との内的関係であり、捉え方の違いである。
もう少しわかりやすく言うと、「壺が見える」とは壺という対象の報告で、捉え方は一つだ。これを単相状態という。
対して「顔に見える」とは、顔に見えると同時に他にも見える可能性も含んでいる。それは対象の報告ではなく、見え方の報告であり、ある意味(文法)を含む。これを複相状態と呼ぶ。
そして複相状態のときのみ、すなわち他の捉え方の可能性が意識されるときのみ、相貌すなわちアスペクトの違いが問題になる。
単相状態は日常的に起こる。しかし複相状態は日常的にはなかなか考えにくい。ただ、他者との、あるものを見たときの捉え方、感想、感情、意味の違いを考えれば例はいくらでも出てくる。
ゲームの捉え方は、退屈なもの、頭を悪くさせるもの、楽しいもの、面白いもの、暇を潰してくれるもの、など色々ある。
他者がどのような意味をもってそれを捉えているかを理解することはできない。万物に対してどう意味を与えているかを知ることはできない。
そしてその「意味」が心に刻まれているのだとしたら、心を知ろうとすることがどれほどの難題かわかる。
心の根底には意味錯乱が生じている。他者は覗き込めぬ内界のことではなく、私とは異なる意味秩序を持っているのだ。