星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

科学と人文学の意義~人間は機械ではない~

自分は高校生の頃、大して賢くもない高校で何を思ったのか勉強ばかりをしていました。将来への不安感、大人に近づく責任感などを勝手に背負い、一人で黙々と勉強していた覚えがあります。

 

その中でも特に好きだったのは数学で、一番偏差値が高く出たのも数学でした。

 

数学ができたら理系、数学が苦手だったら文系へ進むという謎の風潮のせいで、そのまま理系に進む予定でしたが、勉強をしていくうちに心の中で文理選択の迷いが生じ、モヤモヤしたまま勉強をしていました。

 

高3になる頃には文系へ進むことにして黙々と勉強していましたが、結局いろいろとあって、高3の夏ごろからうつ病不登校気味になり、勉強を放棄しました。

 

結局現役時代は特に受験せず、浪人することにして(もちろん簡単な話ではありませんが)今度は理系として勉強を始めました。

 

しかし、心のモヤモヤが晴れず、最終的には文転して、自分が何をしたいのかもわからないまま、ただ面白そう、という理由だけで、いろいろな大学を受験しました。(外語大、海洋大、慶応大、明治大など・・・)

 

どの大学も全く違う学部学科で、結局僕は文理が融合したような幅広く学べる学部に進みました。色々なことを学んだうえで、専門を決めようと考えたからです。

 

このモヤモヤの正体は何だったのか、今でもよくわかりませんが、自分の興味関心が人文学にあるにも関わらず、周囲からは数学ができるからと理系に進むことを薦められて混乱していたんだと思います。

 

数学はとても好きですが、僕が真に興味あるのは「人間」であって人間の周囲に存在する「自然」そのものの客観的な記述にはあまり興味が持てなかった、むしろ「自然」と「人間」の関係、そして「自然」とともに生きてきた人間の「心」といった抽象的で目に見えない世界に興味があったのだろうと、これを書きながら思っています。

 

そんな僕ですが、twitterで「自然科学は学問だが人文学は学問といえるのか」、という話をフォロワーの方と話している中で、ある人が断固として人文学を学問として認めないのを見て、「科学って何なのだろうか」と素朴に疑問を抱きました。

 

前置きが長くなりましたが、科学とは何なのか、自分なりに考えてみようと思います。

 

 

近代科学がどういうものなのか説明するときには、科学哲学者ライヘンバッハの具体例がとても分かりやすいです。

 

『海辺の町では、日が昇って、しばらくすると、海のほうから風が吹いてくる。大昔の人々は、朝になって、海の神様が目を覚まし、活動を始めたから、海から風が吹いてくるのだと信じた。しかしこんな神話は、近代科学によれば、笑い話だ。日が昇って、太陽の熱で陸地が暖められたために、その上の空気が膨張して稀薄になったので、そこに、海の上の冷たい重い空気が、流れ込んできただけなのである』

 

つまり、近代科学は経験的に因果的な法則的知の確立であると言えます。

ちっとも合理的でない神話や迷信なんて訳が分からない。近代人は秩序立った原因と結果の科学的に立証された構造の知に基づいて生活しているということです。

 

これはとても偉大なことです。なぜなら因果法則を把握できれば、過去も未来も知ることができ、さらに工学的に広く応用して、文明化を促進できるからです。

 

こうした科学の観方は、機械論的自然観と呼ばれます。

 

大昔には、自然現象の中に霊的なものが潜んでいるとみるアニミズム的自然観がありました。

その後には、アリストテレスをはじめとする目的論的自然観が支配します。これは、ものはみな本性(形相)を秘め隠しており、自分の本性を実現しようとしている、そしてその実現の先に、最終目的となる神という存在がいる、という自然観です。

だからこそ、神や万物の根源などが探求されたんですね。

 

しかし、ガリレオデカルトなど数多くの功績により、この自然観は打ち破られ、機械論的自然観が成立しました。「霊魂などありません、あるのは因果的な物質的現象のみだ」という考えです。

 

これはまさに現代に通ずる自然観であり、私たちになじみ深い、もはや言うまでもなく当たり前とされている考え方とも言えますが、実はそこまで単純ではないのです。

 

まず、近代科学では経験性と合理性という二つの方法的態度が重視されます。

 

出発点は経験性でした。ありのままの事実を経験し、観察して、そうとしかおもえない事柄に立脚して、物事を受け取り、見つめてゆかねばならないという態度です。「聖書」に書いてあるからこうなんだろうとか、「偉い人」がいうからこうなんだろうとか、そんなものはどうでもよく、自分で物事をよく観察しましょうということです。

 

しかし、それだけでは不十分でした。経験は人によって違います。個人差があってはいけない、経験の中に普遍的な法則を見出さなければならない。これが合理性です。

 

そして、カントが帰納と演繹の二つの要素を統合して人間の正しい思考のあり方の方向を示したように、アメリカのプラグマティズムの哲学者ウイリアム・ジェームズも経験性と合理性の長短を説いて、この二つは人間の思考の極めて重要な二面性であるといいました。

 

こうした流れの行き着いたところに、先に述べたライヘンバッハの因果法則(なになにならば、つねに、なになにである)があるのです。これを「仮説演繹法」といいます。

 

これで決着がついたように思えますが、仮説とその実験的検証という「仮説演繹法」には大きな問題がありました。

 

ライヘンバッハより1世紀も前に、ジョン・スチュアート・ミルは、その問題点を指摘していました。

それは、「人間が収集できるデータは有限のものであり、そこから、すべての事例に完全に当てはまるような普遍的法則にたどり着くには、飛躍が必要だ」というものです。ミル自身は、自然の斉一性(同じ条件で同じ現象が起こる)から、データは必要十分量で良いとしてこの問題を自己解決しましたが、結局これは演繹的推論であり、科学の経験性を裏切ることになります。

 

それを踏まえてライヘンバッハは、仮説演繹法は本質的に人間に不可能だとしました。「人間は有限の存在者であり、物事の結果を完全に予測することができない」

そして、「科学的法則は必然的なものではなく蓋然的なものであり、確率的、統計学的なものとして理解されなければならない」と述べています。

 

経験的な科学は、たえず吟味され、修正され、試行錯誤を経て、発展し変化していくものとみなされるようになりました。

 

20世紀の科学哲学者ポパーもこう言っています。

「ある法則は、これまで人間のなしてきた限りでの経験的事例によっては、まだ誤りとされず、「反証」されていない、ということだけを意味しているにすぎない」と

 

ここまで科学が完全には信頼たるものではないということを述べましたが、では、だとすれば、どうして私たちはこれほどまでに科学を信頼しているのでしょうか。

 

ここまでくると、アメリカの論理学者・科学哲学者であるクワインがいったように、科学の知は経験解釈のひとつの全体的図式であり、ひとつの虚構、神話、文化的構成物にすぎないという考え(簡単に言えば、科学も神話の一つ)も、簡単に排除できません。

 

クワインはこうも言っています。科学とは過去の経験に照らして未来を予測するための道具であり、経験を単純化し、簡略化して説明する。その説明がほかの神話に比べて有効だと。

 

ライヘンバッハも、科学を、冷静に事実に照らして取り出された有効な手段の概念的組織として、私たちの生活に役立つと、プラグマティズム実用主義的)の観点から科学の信頼性と存在理由を述べています。

そしてデューイによってもプラグマティズムの観点から科学の意義が述べられました。

 

つまり、科学は困難を解決するのに有効な道具として意味があるということです。

 

科学は万能ではありません。もちろん限界があります。

 

ミルがいったように、科学によって導き出された因果は蓋然的で確率的なもので、現実の全体は、いまだ科学によっては解明し尽くされていません。

 

科学はある肥料によって、植物の成長が促進されることを理論的にも実験的にも高度な蓋然性をもって立証できますが、その植物がどのような曲線を描いて枝葉を茂らせるかはわかりません。

その植物がDMTを含んでいるとして、それを体内に入れた人間がどのような世界を目にするかもわかりません。

 

科学はあくまで「一定の方法的視点」にしかすぎないのです。現実は科学だけでは見通せない、もっともっと混沌とした世界ということです。

 

科学では、というより人間には、現実のすべてを知り尽くすことは不可能です。できるとしたら、それは人間を神としたときであり、それは人間の奢りであり傲慢です。

 

 

科学の限界はもう一つあります。それは、科学が主体の問題を放置することです。

 

人間は対象化されるだけではその全てはみえません。人間は自ら主体として、思考し、感じ、意欲し、そして行為して生きてゆくものです。

 

私たちの行動一つ一つが公式化し、未来まで予測されるようなある種のディストピア的世界観なんてたまったもんじゃありません。

 

僕は僕であり、一人の生きた人間であり、苦し紛れに生きています。

 

高校時代の僕は無知ながらも、どうもこの科学が主体を排除するあり方に、心のどこかで反発していたのではないかと思います。

客観的に考えることが大事、なんて勉強しているとよく言われる言葉ですが、最近は客観化が進みすぎて、多くの人が主体性を失っている気がしなくもありません。人間は客観と主観の二面性がありますが、そのバランスについて言及した人っているのでしょうか。

 

人間を科学する、ということは、皮を剥ぎ、それが誰であるかを認識不可能にして、一様な人間群の一つの被検体とする。そこには主体も個性もなく、あるのは他者に認知された私であったはずの何か

 

おそらく高校時代の僕は、単に勉強がしたかったわけでも、いい大学に行きたかったわけでも、いい企業に就職したかったわけでもなく、ただ、勉強して、自分のことを知りたかっただけなんだと、この記事を書いていて思いました。

 

今思えば、大学に入って、僕が最初に興味を持ったのは実存主義や個性であって、すぐに授業で「個人主義と教育」について短い論文を書いて、その後心理学に興味を持って文学部の授業に潜り込んで・・・(その後はうつ病で休学したりして・・・)

 

 

もちろん僕は科学を否定しませんし、自然科学の趨勢には人間の底知れぬ力と魅力を感じますし、現代の科学技術を享受します。

 

しかし、忘れてほしくないのは、

科学だけで語れない世界があること

人文学の中には、科学が入れない領域に挑もうとしている分野があること

その学術分野も含めて、一つの学問だということ

 

こういう見方があり、機械論に傾倒せずに、人間としての主体性を忘れないよう生きていく必要があると、訴えたいです。

 

参考『現代人のための哲学』渡邊二郎著

ちくま学芸文庫

 

長い連休、すぐに引きこもってどうしようもない一日を過ごしてしまいますが、今日は外で本を読めました。その一つの成果としてこの記事を書きます。

 

ではまた。