星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

創作︰素粒子の幽霊 -後編-

次に、と思う。世界もわかれば宇宙もわかる今なら、自分は月から見た地球とやらを意識したい。途方もない太陽系よりも途方ない宇宙のことはあまり興味がない。もうわかってしまっているからだ。しかし意識するかどうかは違う。思念は景色を写す。だから今から、景色としての地球を眺望する。

それは、まあ、確かに青い。そうだな、確かに美しい。自然が創り上げた一つの芸術品にしてはあまりにも出来すぎている、と言いたくなるほど美しい。と同時に、溜息を吐く思いで溢れる。毎日毎日家と会社の往復をしていた自分の身体が、四畳半を徘徊する精神病者に思えた。身体こそ粒子を留めていたにもかかわらず、身体までも環境に留められていた。束縛されていることに気づかず、生きるためと必死になっていた自分のことをどれ程の幽霊たちが嘲笑っただろうか。わかる。わかるさ。嘲笑うため、もしくは親切にも伝えようとするため下界を意識し、それが粒子の揺らぎとして偶然観測されてしまう幽霊の気持ちが。そんなことをする捻くれ者の気持ちが。おそらくそいつらも、同じように地球を見ているのかもしれないな。ちょうど今も。

そうだよな。

「ですね」

青二才が云う。

「地球は綺麗だな」

語りかける。

「地球を見ようと意識した人間はみんなそう言います。そして生を憂います」

まさに自分のことだ。

「生を憂う。しかし今に歓喜しない。それはなぜだろうか?」

わざとらしく問う。

「簡単なことですよ。ここは地獄ですから」

やはり青二才、訳の分からんことを云う。

「地獄か、そうか。じゃあ天国はどこだろうな」

「地獄の存在にはわかりません。多分、良いところなんでしょう。にしても、あなたはどうして地球を見ようとしたのですか」

「そんなの決まっている。知りたかったからだ」

「なんで知ろうとしたのですか」

意味がわからない問答。意味があるかわからない問答。退屈だからと、禅問答のつもりでそれを受ける。

 

「自分がこの世を意識したとき、全てを知った。いや、全てではなかった。わからないこともあった。自分がこれから何を意識すればいいのか、なんのために意識すればいのか。意識だけが残された粒子の死人の生き様、それだけはわからなかった。そうして路頭に迷ったから、地に足をつけたくて地球を見下ろしたんだ」

「そうですか。地球を見て何かわかりましたか」

「わかったのは地球は美しいってことと、生きていた頃の自分は馬鹿だったってことぐらいだ。そのぐらいしかわからなかっただろう、君も」

「本当にそれだけですか」

急遽禅問答は議論の様相を呈す。

「それだけだが」

「あなたはまだわかっていない」

そして、議論は反転する。

「何をわかっていないんだ」

「あなたと僕とここのことです」

意識して、理解したはずだ。この青二才は何を云う。

「どういうことだ」

「あなたはギニアピックに捕まりましたね。所詮あの実験動物は数十年前に殺されたに過ぎない。僕は何千年もここを彷徨っています。そのぐらいここにいるとわかるんですよ。もっと奥深いことが」

何千年という年月の示すところに畏怖する。何千年といっても、ここに時間の概念はなく何千年もここにいたわけではない。何千年も前に死んだという事実があるだけだ。ただそれだけのはずなのに、なぜか恐ろしい。

 

「その奥深いものを教えてくれ」

「さっきあなたはこう言いました。自分がこれから何を意識すればいいのか、なんのために意識すればいのか。意識だけが残された粒子の死人の生き様、それだけはわからなかった、と。その通りなんですよ。ここにいくらいたって死人の生き様はわからないし、輪廻転生する訳でもないし、こうして地球を眺めるようなことくらいしかすることが無いんです。そんなここのことを生きている人が知ったらなんて言いますかね。意識することしか許されないのに、意識する目的が何も無いここのことを」

言葉に詰まる。

「地獄ですよ」

 

恐れ慄いた自分に恐怖の雨が降り注ぐ。逃げ場はない。冷たくなった身体をさらに冷やす事実から逃れることは出来なかった。ここに空間はない。雨雲を意識してしまえば雨雲は晴れない。

「ここが地獄だと」

「そうです」

簡素な肯定。

「じゃあ天国はどこだ」

「さっき言いましたよね。地獄の存在にはわからないと。でも多分、天国なんてないですよ。ここに来てもわからないということは、多分そういうことなのかと」

誤ちを犯していた。青二才はどっちだ、自問自答する。ここのことを、世界のことを知ったつもりになった自分を恥じて。

「おかしくないか、地獄があれば天国はある。そういう対立構造だろう」

「だから僕は生きている人間が知ったらと前置きしたんです。そうでないと他に表現する言葉が思いつきませんから。この世界は死んだものの粒子で出来ています。それは死んだものの意識で出来ていると同意です。意識に満ちた世界、それがここなんですよ。死んだら身体を失います。そうして拘束が解けた素粒子は世界に馴染んでここを作ります。その素粒子のことを人は霊魂なんて言いますね。入れ物の亡くなった霊魂には何もすることができません。意識することを除いて。意識は素粒子の意識ですから。身体を持って物体に干渉できることがどれほど幸せなことかわかりましたか。あえて天国がどこかというなら、私たちが生きていたあの地球ですよ。だから僕はこうしてずっと地球を眺め、時折覗くんです」

 

自分という存在の素粒子が意識の素となっていた、それは死んでわかっていたことだ。しかし、自分という素粒子がどんな立場に今いるのか、それはわからなかったことだ。身体があったことを憂いた先程までの自分を憂う。物体として存在すること、在る意味を持っているということ、それが幸福だと気づかなかった自分は顔なしの阿呆だ。死とはすなわち物理的な終わりであって、意識は続く。意識は続けど、意識することしかできない。時空の干渉しえない意識。自由を超えた自由の先には、無限に続く平原が広がっていた。この平原を歩くしかない。ただひたすら歩くしかない。止まったっていいが、どうせ歩く。青二才と罵った青年のように。

「長考しましたね。理解しましたか?あなたのこと、僕のこと、そしてここのことを」

「ああ、理解した」

「ようこそ、地獄へ」

 

意識の無限地獄、ここはそう言うべきところだったのか。それがここの本質ではないにしろ、地獄という意味を持つ。

「でも地獄といっても人間が想像するほど苦しみしかないわけではありませんよ」

「どういうことだ」

「死んでも遺された人達を見守り続けられる。そういう意味では地獄というより天上界ですかね」

「そうか」

意識することしか許されないここでも地上のことはわかる。このわかるという救いが残されていた。

「君はずっと地球をみて、地上のことをわかろうとしてるのか」

「そうです。一緒にどうですか」

「そうだな、ご一緒させてもらおう」

青年と月面に寝そべる、ような気持ちで天国を眺める。妻や子供、友人のことを見守りながら。

そして想う。これが死ぬということか。これが素粒子になるということか。見守ることだけが許された、意識のみを持つ素粒子の幽霊、それが俺さ。

創作︰素粒子の幽霊 -中編-

光速を超えて宇宙の連関の中に死後生きる。何ができるだろう。何をすればいいのだろう。特に独自の死生観を持っていた訳では無い自分にとって、死後どうなろうがどうでもよかった。ただ受け入れるのみの心術を自然と持ち合わせていた。

 

そういえばと思い出す。大学院で学んだ量子もつれのことを。光速を超える、空間を介さない連関、物質同士の相互作用、これらは観測されていた事柄であり、今の自分に近い。というより、粒子として漂い、先程のようにコミュニケーションを取ることこそまさに量子もつれの体験だ。結局自分は一つの真実を知ってしまったに過ぎないが、今の自分にとってはそれだけのことと片付けられてしまう。

 

その真実とはこうだ。粒子となって世界を満たす人間含む動物の残骸は、粒子の塊として世界を創り出している。そして大きな生命体として宇宙は屍骸粒子の連関によって成立し、人間はただその生命体の細胞を見つけることすらできなかった。生きている存在も死んでいる存在も、同じ粒子から成るという単純なことに人間は気づかなかった。

 

その真実を知ったところで自分の役目だけはわからない。世界を理解しても、自分を理解出来ていなかった。そちらの方が大問題だ。

 

無事幽霊になった自分のすべきことは人を驚かすことでも、人を呪うことでもない。そんな力は持ち合わせていない。考えるべきは身体を持たなくなった自分に何が出来るかだ。

 

夢想する。空想に耽ける。無想する。想像を巡らす。いくら考えても現れない任務を考えるという任務。それが枷られた首輪ならば、一種の拷問だ。

 

そこで考える方向を地上へと向ける。つまりは人間だった頃の自分を思い出す。自分はどんな顔だったのだろう。自分はどんな顔をしているのだろう。死んだ自分の身体は遺されているはずだ。だから今は自分の顔がわかる。見えるのではない。わかるんだ。身体がどこにあるかは関係ない。どうせ火葬されたはずだ。身体がいつにあるのかも関係ない。どうせ時間の制約はない。

 

自分の顔は、阿呆の仮面を被った道化師のように、他人事に思えた。それが自分だと理解すれど、身体から放たれ、第三者目線で理解出来るそいつは、ああ、ただの身体に過ぎなかったんだ。思えば生きている間は、つまり身体の中に閉じこもっている間は、身体は道具として生活必需品のようなものだったんだ。今や中古品になったそいつは、どう考えようがただの身体に過ぎなく、今こうして意識できる自分がここにいる。そういうものなんだ。ここってどこかって?ここはここだ。

 

しかし身体全体のバランスが悪いな。足は短いし掌はでかい。なんてったって顔がでかい。鏡で見ていた自分より幾分か不細工だ。自覚はあったから、幾分かだけ。それは劣等感や嫌悪感を湧かせるようなものではない。身体は道具に過ぎなかったと今はわかるから。世間を生きやすくするものであったのは確かだが、死んでしまって、わかってしまった自分には、その無意義さだけが際立つ。処世の悲しみを知ってるかい、動く身体よ。全くペシミストな幽霊になったものだ。

創作:素粒子の幽霊 -前編-

前中後編に分けます。大学生の時のメモを発掘しました。山田亮一の影響受けまくってますね。

 

 

 

「今日の空は何色かい?」

死んだギニアピックが云う。

「青色に見えるよ」

簡素に応える。そこに青があるから。

「見えるのか。君はもう人間じゃないのに」

「まだ人間だと思ってるが」

「僕とコミュニケーションを取っている。それだけでもう君が人間じゃないとわかる。木は植物だ、と問うぐらい当たり前のことを確認するが、君は死んでいるね?」

「死んでいる」

死に馴化できない意識、それに折り合いをつけられない掠れた声は、内角の和の如く平坦さ。

「君がまだ慣れていないようだから、僕が教えてあげよう。この世界を」

頭のいいギニアピックが云う。

「やっぱり死後の世界なのか」

「そうだ」

「死後の世界なんて信じていなかった」

「正確には死後の世界はないさ。僕は実験動物として殺されてしばらく経つが、今いるのは死ぬ前の世界だとわかった」

確かに空がある。雲がある。建物がある。人々がある。それらは全てある。しかし何かおかしい。そこに<在る>のに見えない。先程青に見えると咄嗟に応えたが、見えるというより知っているに近い。感覚がおかしい。普通の感覚ではない。何よりも何と誰と話しているのかわからないのにわかるのが問題だ。

「聞いていいか?」

「何を」

「お前は誰なんだ」

確認する。

「ただの実験動物だった<何か>さ」

慣れた口調には哀しさも憂いも感じられない。しかしうつ病の感覚とも違う。ただ応えるだけの存在だと吹聴している。

「ではこの世界について教えてあげよう。時空が消滅した僕達の居場所を」

「時空が消滅した?」

「僕達死んだものは光速を超えることができる。正確に言えば速度から解放される。僕と君がお互い誰かも知らずにこうしてコミュニケーションを取れるのはそのおかげだ。速度がない、空間がない、だからいつでもどこでも対面できる」

「テレパシーみたいだな」

「テレパシーだよ、まさに。君もその事実を知っているはずだ。意識できていないだけで。意識してごらんよ、君の存在について」

瞬時に理解した。刹那に知った。知っていたんだ。死んだことによって身体は世界に四散し、魂は蔓延し、意識はこの青い空のような広がりをみせていた。

身体はどこにいったのかと問われれば、ここにあるとも、ここにないとも、どこにでもあるともいえる。身体を構成していた素粒子が世界に四散したんだ。それが空間のようなものを創り出している。死骸を燃料に使う火力発電が生活を支えているように、この世界は死骸の素粒子が安定させている。亡骸の粒子の海に生きていたんだ。そしてその一部となってそのことを理解したんだ。

粒子の集まりとして人間があり、脳があり、意識があり、心がある。だとすれば身体などなくとも、今こうしているように意識し考えることができる。固有の人間から世界の一部へとなった自分を自分で意識することができるし、亡骸の粒子が馴染んだこの死後の状態に空間や時間などない。

「わかった」

一言放つ。

「じゃあそれだけだ」

死んだギニアピックは去った。

 

ーーー続く

創作:エコロジーは初対面にあらず

今日、東京芸術大学美術館の「新しいエコロジーとアート」を観に行き、色々思うことがあったので、とりあえずその一部を自分の形で表現してみます。

 

 

 

ぼくは吊り橋の中間地点に立っている

ぼくはこのまま進んで対岸の自然豊かな土地に行きたい

しかし今ぼくは目の前の存在と向かい合っている
人型のステンレス鋼の塊
黒いボーラーハットを被っているために頭は丸い


そいつはぼくに話しかけてくる
「私はこの先に行きたいのですが、進んだ先に土地はありますか?」
ぼくは少し悩んでから応えた
「土地はあるけど、あなたが求めているものはないんだ…ごめん」
「私が求めているもの?君はそれを知っているのですか」
ぼくは俯いて言葉を続ける
「それは鋼のように硬く、錆びついた匂いがして、精巧に作られた木々が生い茂った、そんな土地でしょ?」


そいつは突然その硬い右手でぼくの頭を撫でてきた
ぼくはびっくりして思わず手を跳ね除けた
そいつの手は硬いから払い除けたぼくの左手首がじんじん痛む
「な、なにするんだよ!?」
「突然失礼しました。でも私が求めているのは、君なのです。君自身を求めているのです」


ぼくとそいつは互いの目をじっと見つめ合う
「どういうこと?」
「私は君をただ見つめることすらもできず、君を利用し、君に生かされ、君に還っていきました。でも、君に殺されかけて今更になって気づきました。君の存在の大切さを。私が"ここ"にいることを」


そいつは手を差し出した
そうか。そういうことか
ぼくはそいつの手を取る
「これからどこに行くの?」
「まず、案内してくれませんか。君の緑と青の世界を。そうしたら次は、良かったら案内させてください。私の…」
「あなたのかったーい世界を案内してね!」


そいつは笑顔になって言う
「君の笑顔が見られてよかったです。緑と青の瞳が美しく輝いていますよ」
ぼくはそいつと手を繋いで吊り橋を渡った
これから始まるんだ
初めましてじゃない挨拶が

創作︰零れ落ちた涙が手のひらをすり抜ける

  24歳という若さで飛び降り自殺をした女性が残したと思われる遺書が、彼女が亡くなってからちょうど2年後の平成30年6月20日に発見された。
  神保町の古本屋の棚に飾られたある本に挟まっていたのを、客が偶然見つけたのだ。


以下、遺書の内容

 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は恵まれていました。


涙を流したら、声をかけてくれる人がいました。


涙を流したら、手を握ってくれる人がいました。


涙を流したら、代わりに拭いてくれる人がいました。


涙を流したら、抱きしめてくれる人がいました。


皆様の優しさに触れて、育ちました。


しかし、優しさに甘えることだけを覚えてしまい、優しさが手のひらから溢れ落ちないように努力することができませんでした。


私は本当に幸せ者でした。


そのことに気づいたときには、


溢れ落ちた涙が手のひらをすり抜けていました。

                                                                  北條 晴美        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


蛇足だが、遺書が挟まっていた本の題名は『トーマス・エジソンの願い』だったという。

御冥福をお祈り致します。

創作︰ドーナツの穴を食べるということ

登場人物

中学2年生の草加部 朱莉(14)くさかべあかり
大学生講師の松田 文博(24)まつだふみひろ


「それじゃあ授業始めっかー」
 ドーナツを囓りながら松田は先に席についている朱莉に声をかける。
「またドーナツ食べてる…見つかったら教室長に怒られますよ」
 朱莉は呆れた表情で迎える。
「バレなきゃ大丈夫」
「バラしますよ」
 松田は軽く脅されるが、
「えーと、とりあえず前回の宿題の確認からするか」
 一口齧られたドーナツを片手に何食わぬ顔で授業を始める。
「宿題はやってきたか?まあやってきただろうな、君優秀だし」
 しかし返事はなく、えーっと…と空気を濁らせ目を左右に泳がす朱莉がいた。何か言いたいことがあるようだ。
「忘れたのか?」
「いや、そうではなくて…先生に聞きたいことがあって」
  松田の顔を伺うようにして目が合う。
「言いにくいなら無理に聞かないけど、仕方ない、今言ってくれれば俺が買ってきたドーナツを一つやろう」
 10円玉を見つけた程度の小さなご褒美は朱莉の表情を明るくすることはなかったが、物で釣られる演出ができる状況は口を軽くした。
「せ、先生はどうせ恋愛の経験なんかないだろうからこんなこと言っても迷惑だろうし…」
配慮があるのかないのかわからない言葉の連なりが槍となって松田に刺さる。
「い、言ってくれるね…朱莉さんよ…。お、俺にだって…」
「あるんですか?」
「2ミリくらいある。ってそんなことはいいから早く聞きたいことやらを言いなさい」
 話題の転換を急ぐ。あるんだ…と小さく呟かれた一言は聞かなかったことにするらしい。
「実は同じクラスの男子に告白されたんですよ」
 中学生にはよくある話だと松田は気に留めなかった。
「それは良かったじゃん。初デートどこ行くかって?んなもんそこらへんほっつき歩けガキだし」
 恋愛とは無縁の生活をしていたため、不自然に口が悪くなる。
 そんな暴言を朱莉は首を横に振って受け流す。
「口悪いです。それに告白は断りました」
「それならそれでいいんじゃね?」
「よくないんです。私が聞きたいのは、その人に告白されたときになぜかとても怖く感じて…なんで恐怖を感じたのかいくら考えてもわからなかったから聞きたかったんです」
 机の上の筆箱をぼんやりの見つめながら言った。
「それはお前、ドーナツの穴を食べられそうになったんだ」
 突拍子もない発言が放たれた。
「はい?」
  松田は真剣な眼差しだが、朱莉の頭上には大きなクエスチョンマークができていた。
「いいか。世の中は領域で区切られている。家、学校、国境、パーソナルスペース、言い出したらきりがない。全て領域で区切られていて、人間は自分が所属していい領域の中でしか安心して過ごせない」
 松田は机の上にドーナツを置いた。
「今俺がここにドーナツを置いたことで、机の上にドーナツの穴ができた。ドーナツの穴という領域だ」
 朱莉は当然要旨が掴めず、ただ言葉を受け止めるだけだった。
「机の上に置いたらドーナツ汚くなりますよ」
 どうでもいいことが気になってしまったようだ。
「気にせんでいい。続けるぞ」
 コクリと頷き松田の言葉に耳を傾ける。
「誰かの領域に土足で踏み入ってしまうことを、ドーナツの穴を食べる、と言う」
「そんな慣用句初めて知りました」
「当然だ。今俺が作った」
「…」
 松田は構わず続ける。
「ドーナツをしっかり食べていけば穴は穴以外と繋がって調和される。そうせずにいきなりドーナツの穴に食いついてしまうと、どうなるでしょうか」
 親指と人差し指で持ったドーナツを朱莉に向ける。
「うーん、何も食べられないだけでは…?」
 ドーナツの穴から松田を覗き込む。
「そうだ、何も食べられない。でも何も食べられないだけじゃなくて、穴の密度が増し、圧力で内側からバラバラになる」
 松田はドーナツを再び机に置いた。
「は、はぁ…、話してることは頭では理解できるんですけど、いまいち飲み込めないです」
 朱莉はドーナツが膨張して破裂する様を想像しながら首を傾げた。
「ドーナツを心に言い換えてみよう。告白されたということは、告白してきた男子は朱莉に好意を寄せてきた。ちなみに好かれる出来事はあったか?」
「特に好かれるようなことは…帰り道が同じでたまに一緒に帰ってたからですかね」
 今後朱莉と朱莉を好きな男子は気まずい思いをするだろう。
「そもそも好かれる覚えがないというのが恐怖の一つの原因だ。納得いく理由なく好かれる、自分の知らないところで自分が注目されていた、そもそも相手のことを知らない、これは確かに怖いことだ。もちろん相手側には説明できる理由があるんだろうが、それは相手にとっての理由であって自分とは関係ない」
 朱莉は話を聞きながら頭を働かせ、視線を無意識に上へ向けていた。
「つまりもっと仲良ければ結果は変わってたかもしれないってことですか」
 天井に向けられている視線を真っ直ぐに戻す。
「そうかもしれないが、もっと重要なことがある」
「重要なこと?」
 松田はドーナツを一口齧り、咀嚼して飲み込む。同じ動作を繰り返してドーナツを全て平らげる。
「うまかった」
「何ですかいきなり。見てたらお腹減ってきたんですけど。後でくれるんですよね」
 松田のことを半目で凝視する。
「やるから大丈夫だって。重要なことは…」
 ポケットから取り出したティッシュで手を拭いてから、
「味だ」
 短く答えた。
「そ、その心は…?」
 朱莉の戸惑いが言葉に表れていた。
「もし自分がドーナツになったとして、味は美味いか不味いか答えられるか?」
 ティッシュをさらに取り出して、机の上のドーナツがあった場所を拭きながら質問した。
「そういう呪いの魔法ありそうですよね。自分の味…わからないけど、たぶん不味いです。いや、とても不味いと思います」
 自分のことを不味いと表現するのは一種の自己嫌悪だった。
「わかる」
 松田は同調するが、ここですれ違いが起きる。
「傷つきました。うわーん」
 両手で顔を覆って泣いたフリをする朱莉。
「あ、わかるって俺自身も自分のこと不味いと思ってるってことな」
「な、なるほど」
 何事もなかったかのように視線を松田の顔に向ける。
「そんな不味い自分のとこに来る人間なんて味覚が狂ったやつぐらいだろ?」
 告白してきた男子のことを悪く思うつもりはなかったが、臭いものに群がる蝿のイメージが反射的に想起された。
「そうですね。不味い食べ物に食いつきたくはないですもん。なんか自分で言ってて傷ついてきました」
 自分で自分を批判するのは少なくとも痛みが伴う。
「もちろん朱莉自身が本当に不味いわけじゃない。自分のことが不味いか美味いか、どう考えるかで受け止め方も変わるってものだ」
 松田は使ったティッシュを丸め、後で捨てるために机の隅にまとめる。
「なんか少しわかってきました。でも、好かれてこんなに怖くなるってことは私はどれだけ自己評価が低いんですか…」
「だったら味付けを変えればいいだけだ。そんなに難しいことじゃない」
「そうなんですかね」
 ドーナツで例えられたおかげか、確かに大して難しいとは思わなかった。
「そうだよ。もうだいぶ時間が経ったから早く授業始めるぞ」
「チッ…時間稼ぎが」
「これ以上稼がせないぞ。で、宿題は?」
 朱莉は下を向く。
「…やってません」
「はあ、じゃあドーナツは抜きな」
 松田は溜息をついた。
「そんなぁ…」
 空腹によってドーナツの価値を高騰させた朱莉にとって、その糠喜びは十分すぎる罰になった。
「次宿題をやってきたらやるから」
 大人げなく感じた松田は次の機会を与えた。
「次って…いつもドーナツ持ってますよね」
「好きなんだ」
「そんなに?」
「そんなに」
「どうしてですか」
「この世の中は領域で区切られているって言っただろ?つまりいくつものドーナツが重なり合って、色々な見えない領域が重なり合ってできているのがこの世界だ」
「領域ねぇ…」
 話が難しくなり、朱莉は机に突っ伏す。
「だとしたらドーナツを食べるってことは擬似的に世界を壊してるみたいで楽しいんだよ」
 はは、と笑いながら物騒なことを言う松田。
「先生は世界を破滅させる怪物にでもなりたいんですか」
「それも悪くないかもな」
「食べられてしまえっ」
この後もくだらない話は続いた。

創作︰リストカット症候群

1995年、日本の地下深くにある研究所ではとある人体実験が秘密裏に行われていた。
研究主任はビットマルキスと呼ばれていた。


行われていた研究がどのようなものかというと、鬱病で死を望む人間に安らかな死を保証して協力してもらい、その人間に様々なストレスを与え、対する反応を観察するというものだった。


ーーー検体213ーーー
和泉 理子(19) 女


特性︰彼女は平均的知能を持ちながら、自分のことを親の期待に応えられない無能な人間と断定している。


与ストレス︰彼女より知能指数が20高い人間達に君は生きる価値があると励まさせた。


結果︰左腕をカミソリで傷つける行為が目立った。そして彼女はより一層死を願った。


考察︰自分より優れた他者との知性的人間的差異を理解することで自死のリスクが高まる。


ーーー検体214ーーー
渡辺 春木(25) 男


特性︰社会に対して恐怖心があり、引きこもりがちな自分に生きる価値はないと、家族にすら罪悪感を覚えて目を合わせられない。


与ストレス︰既婚の男性(研究員43)から、親不孝だ、親は悲しんでいる、早く働け、と説教した。


結果︰夜な夜な、ゾルピデム酒石酸塩(マイスリー)を110mgも過剰摂取し、右腕(彼の利き手は左手)をカッターで26箇所切りつけた。その後嘔吐した。そして彼はより一層死を願った。


考察︰罪悪感を増大させることで自死のリスクが高まる。


ーーー検体215ーーー
春崎 香菜(22) 女


特性︰先天的な鬱病。容姿端麗だが、幼少期から他人に好意を与えられると恐怖を示す傾向がある。また、自分が幸福だと感じると拒絶反応を示す。


与ストレス︰アイドルになりたいという彼女の夢を叶え、鬱病に理解のある理想の男性(研究員61)に愛を誓わせた。


結果︰左腕と左太腿の裏に乱雑な自傷の痕跡が発見された。また、顔の斑模様は自分で首を絞めたことにより毛細血管が切れたためだと推定。そして彼女はより一層死を願った。


ーーー総括ーーー


215人の被験者の死をもって、腕を中心に自分を傷つける行為を『リストカット症候群(別名︰ロジアンスメルデス)』と名付ける。


鬱状態の人間の自死を人為的に発生させることが証明されたため、以後対象を鬱状態にする薬物を利用した安楽死計画を秘密裏に進める。最終目標は敵国の人口削減と士気の低下である。


リストカット症候群(ロジアンスメルデス)は96%が人為的である。