純粋な実在論的世界を顕現させる世界霊魂
この記事を作成するにあたりまず初めに述べなければならないことは、ここで書かれていることが『心と他者』(野矢茂樹著)の第二章(全第三章からなる)の要約、思考整理という役割を持っており、この記事において私の考えは5%にも満たないということである。そして、ここで書いた野矢氏の見解はそれで終わりではなく、第三章で改められることを念頭に入れてもらいたい。
論評は全て読破した上で行いたいが、読破する上で内容の整理を行わないとただ文字を読む作業になってしまうため、ここで一つまとめ、文字に起こした。
野矢茂樹氏の独我論に対する否定の哲学的実践を少しでも分かち合いたい。
独我論への道
「手をあげる」と「手があがった」という表現には心ある描写と心なき描写という違いがある。
私が手を上げたのか、私の心は関係なくただ手が上がったのか
私が私のことを説明するとき、心ある描写をせざるを得ない。というより、確実にそうするだろう。私には心があり、それゆえに「手をあげた」という実感があるからである。
しかし他人に対して心ある描写ができるかというと、そこには待ったがかかる。他人に心ある描写を適用するということは他人に心を認めることになるからである。
私は私の心を実感する。しかし私は他人の心を実感することはできない。大森荘蔵氏や野矢茂樹氏は「痛み」を例にそれを実証しようと試みている。
私の感じる「痛み」は「痛い」という感情を伴う。対して、他人に関して言えば、「痛そうだな」と思うことはあれど、「痛み」を感じることはできない。
私は私の心を実感するが、他人の心を実感できない。そこに心というアニミスティックなものは私のアニミズムであり、他の誰でもない私だけのものだという独我論への道が開かれる。
独我論を否定するために
ウィトゲンシュタインは人々の「魂への態度の違い」大森荘蔵は「アニミズム」の問題という考え方で、他我論に向かおうとするが、それすらも「私の問題」といえないか。今一度独我論を否定するため(私自身の立場)、独我論について考える。
野矢氏(氏はあくまで独我論を否定しようとする立場であることを念頭に)はある犬に対して、「あの犬は黒い」と「あの犬はこわい」という記述の差異を取り上げて、独我論を説明する。
「あの犬は黒い」と「あの犬はこわい」は客観と主観の違いがある。その犬に対するただの性質を述べたのか、その犬に対する感情を述べたのか。
しかし、「あの犬は黒い」という犬の性質も見方によっては違う色に見える。夜に見た犬だから黒く見えた、一瞬みて逃げただけだから影のように黒く見えた、光のあたり加減で茶色の犬が黒く見えたなど、どうとでもいえる。
そのとき、「あの犬は黒い」も主観的な記述となり、そこに客観性はなくなる。まさに独我論への道だ。
そうはしても、「あの犬は黒い」と「あの犬はこわい」という記述には大きな違いがある。
黒さは犬から離れればそこで終わりだが、こわいという感情は犬から離れても残る。それは映画を観終わったあとの余韻や、大きな仕事を成し遂げたあとの達成感と同じである。
ここに独我論から離れる道が開かれる。
感情の世界現象
スティーブン・キング原作のミストのような終わり方をする映画(詳細は控える)を観た後に残る感情は様々であろう。虚しい、悲しいが主だろうが。虚しいと感じた人は虚しい世界に一人たたずみ、悲しいと感じた人は悲しい世界に1人たたずむ。
そこには十人十色の感情があり、十人十色の世界風景がある。
わかりやすくいうと、親や親友の死を経験した次の日に世界は何色に見えるか、ということだ。重度のうつ病でもない限り、悲しみ、虚しさ、無力感、色でいうと灰色といったところか。
対して、同じ日に幸せなことがあった人がいたとする。その人にとって世界は何色に見えるだろうか。観測は難しいが。
とにかく、感情は単なる心的現象ではなく、世界現象といえる。感情は世界の風景を変える。そのとき、私の心だけが唯一のものであるという独我論は否定されないだろうか。感情がもはや心的現象ではなく、世界現象、つまり世界に開かれているからである。
私は世界霊魂を持っている
独我論的世界では、主観性と客観性、内と外という区別はなくなる。それは心的現象すらも世界現象としてしまうことを意味してはいないか。
こわい犬が現れて、「逃げよう」と思考したとき、こわいという感情に彩られた世界と、逃げようという思考に彩られた世界が立ち現れる。
独我論的世界(私だけの世界)では、他者に心があることを否定する上で、同時に、私だけの世界風景があることを了解してはいないだろうか。そして、私の心が世界に浸透するとき、感情と思考は心的現象から世界現象へと変貌する。
ウィトゲンシュタインの草稿の一つ、
「私の表象が世界であるように、私の意志は世界意志である」
これは独我論が向かっている方向を端的に示していると解釈できる(野矢氏の解釈)
「水を飲みにいく」という意志は、<世界=私の世界>のただ中で展開される「世界現象」である。
心的現象も意志も「世界現象」となるのであれば、独我論のいう「私の心」はもはや世界に拡がり、そこにあるのは「私の心」ではなく、「私の世界」であり、「無心の世界(「純粋な実在論」的世界)」である。
「世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。」
(ウィトゲンシュタインの草稿による)
参考:『心と他者』野矢茂樹著 中公文庫