ラプラスの魔物が掴めなかった自由
超自然的な自由意志による自殺について
https://chili-jgn.hatenablog.com/entry/2018/09/10/
という記事で「自由」についてひとつの結論を出した。
自然的な死も、自由意志による死も、害悪からの自由という、同一の自然法則にしたがって生ずるのである。
「死」という生き伸びようとする動物の本能に反する行いでさえ、自然法則に従う。
では、人間は自然法則に従って生きる存在なのか、人間は自然(自然科学が扱うものの秩序)に介入することはできないのか。
そういった問いが立てられる。
そもそも自由とは何か。
普通自由を考えるとき、何かからの自由というその「何か」を考えなければならない。何かとは、束縛するもの、つまり不自由のことだ。
自由電子という電子があるが、これは「原子からの束縛力の最小のもの」という意味で、自由に飛び回れるわけではない。結局は原子からの自由でしかない。
そして電子の話に関連付けると、人間は原子や分子でできており、一種のモノの塊といえる。
これは人間が自然的存在であり、自然法則に従う存在であり、外部から自然に介入できないことを示している。
しかし、ここで日常的な感覚を取り戻してみる。私が煙草の火を消す。あなたが私のシケモクに火をつけて吸う。
これらの行為は火の点滅という自然的状態に介入したことにならないだろうか。
人間は自然に介入できる。
そう結論づけたいのは山々だが、そうは問屋が卸さない。
物理学的に記述される人間(自然法則に従うしかない人間)と、日常的な感覚をもつ人間(自然に介入できる)との間にはまだ溝がある。
どの観点から考えようとも、人間が物理学の記述に乗っ取る限り、自然法則から抜け出せないのだ。
人間には心がある?では心とは何か。
人間には意志がある?では意志を示してみなさい。
どちらも現代における未解決問題であって、その実在性を確保することは難しい。
では自然法則からの自由という、物理から離れない観点で考えてみよう。それは「しないでもいられた」状態だ。
私は手をあげることもあげないこともできる。
私は歩くことも歩かないこともできる。
そう、私には選択の自由がある。そして実際に手を上げ、歩かないことを選択する。
これはかなり自由な選択に思える。しかし、「しないでもいられた」状態にも穴がある。それは、選択の自由があったことを示せないことだ。
私が手をあげ、「手をあげないこともできたが、あえて手をあげた」と言うのは簡単だが、これまた示しようがない。
眼目に写るは決定された世界のみであって、可能性の世界は非現実的なのだ。
ニュートンの古典力学が予測し、ラプラスの魔物が示した「普遍的決定論」の世界がここにある。
我々は世界のシナリオに従うしかない。我々に自由などない。
しかし、現代は幸いにも非決定的な世界を持っている。それが量子力学だ。
量子力学では素粒子の状態は非決定的で、観測されるまで定まらない。これは自由を考えるのに使えるのではないか。
先に言ってしまうと、答えはNOだ。
非決定論的な量子力学の世界において、その非決定論的な状態を自由といえるかどうかはまた別の話になる。
電子のスピンの方向が、私が観測することで定まるとする。それは私が観察したときに決まったのであり、私が自由に決めたわけではない。
結局のところ、量子力学の非決定論世界も自然の側で自律している。
ここまで考えてきた結果として、自由に行為するためには、自ら決定できなければならない。
ラプラスの魔物が作り上げた世界シナリオから脱却しない限り、私たちの決定は自然法則に依存する。
しかし、とここで声を上げたい。
世界シナリオは完成しているのか?と
落ちていく枯葉とその着地地点をみて、ああだったかもしれない、こうだったかもしれないと想像を巡らすことが人間にはできる。
そして、ある物体の運動に対しても、その運動が何を目的とする運動なのか思惑することもできる。
そんなフィクションを人間は生み出せる。
ラプラスの魔物は、今私がこの記事を書いていることを予測できるだろうが、どんな目的で、もしくはどんな気持ちで書いているかはわからない。それは物理学的記述ではないから。
現実は一通りだが、私たちが生み出す虚構(フィクション)はその一通りに様々な意味を与える。
そして私たちはその意味の中に生きる。
世界シナリオは完成どころかスカスカだ。ノンフィクションの中にフィクションを生み出す「自由」を、人間の創造力を見落としている。