星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

悟りの境地と自我の崩壊

先日1人の友人を亡くしたことを思いつつ、彼の好きな論理哲学論考の浮遊した文字を目で追いつつ、あーそういえばすでに知り合いを2人自殺で亡くしたなと思いつつだからかもしれない。改めて『彼岸の時間-意識の人類学』を読み考えたことをここに綴る。

 

 

 

シピボ族の人々はアヤワスカ茶(詳しく述べると、アヤワスカとチャクルーナという植物を配合したお茶、幻覚作用をもたらす、精神展開薬)を使っても淡々としている(らしい)

 

アヤワスカ茶それ自体は宗教儀礼の道具の一つだったが、LSDとは異なるビジョンの神秘性に魅了された人々が近年はシピボ族を訪れ、その神秘に日々触れている。

日本でもアヤワスカアナログと言われる身近な幻覚体験が局所的な流行りを見せている。

 

さて、西洋社会や日本など外部から訪れた人はその強烈な興奮状態やビジョンに巫山戯る反面、バッドトリップに陥ることが多いという。

淡々とする内部と巫山戯る外部、という図式がそこには成り立つ。

 

何故このような違いが生まれるのかと考えると、面白い発見ができそうである。

なぜなら、精神展開薬を服用した際の作用の違いに気づくからだ。

 

この違いを、脳科学的にではなく、心理的な作用の側面から考えてみる。

 

精神展開薬はその名の通り精神の展開・拡張をし、それはまた自我の崩壊をも意味する。

このときの自我とは哲学的な自我と異なり、フロイトが提唱したような精神分析学的な自我、つまり欲動や無意識を調停する自我であり、自我そのものに内容はない。

 

淡々としているシピボ族の人々には精神展開薬による自我の崩壊・精神の拡張という作用が働かない。それは、硬い自我がないことを示唆する。

例えば、米を杵でつくとやがてひとつになり餅となる。形状は簡単に変化する。

しかし米をタングステンのような硬い金属に置き換えると形状は変化しない。

米とタングステンはそれぞれ自我の硬さを意味している。

 

外部の人間は多様な人間関係や自分の興味関心、社会的な地位、葛藤、日常生活のストレスなど一つ一つの経験を通して自我を確立していく。

そのときアヤワスカ茶は、硬くなった自我を崩壊させて精神を拡張させる働きを持つ。アヤワスカとはタングステンを叩き潰す神の道具なわけだ。

 

対して、自然に生き、アヤワスカの体験を宗教儀礼だと慣習的にみなす部族の人々にとっては、その体験の神秘性は認めるものの、当たり前で、慣れていて、すでに「自我の崩壊」は起きている。それゆえに淡々としていられる。

 

自我の崩壊というと否定的なイメージがつきまといそうだが、自我ゆえに葛藤する外部の人間に対して、自我の崩壊ゆえに葛藤しない内部の人間は、その視点を自分からよりメタ的な視点に昇格させられるだろう。

 

この視点こそ「悟り」の境地、迷いから覚めるということなのかもしれない。

悟りとは自我の崩壊と同等であり、地を見る目線とは異なり空の彼方の裏側を眺める視点。

悟ることの善悪は問わないが、自我の崩壊を悟りというのならば、悟った人間はどうなるのであろうか。それは悟り人にしかわからない。

 

そういえば自分も初めてのDXMで強烈なビジョンを見て以降どんなに注意深くセッティングをしても最初のビジョンを越えられるものは見られなかった。そして、精神展開薬に見切りをつけてやめた。そもそも続けるつもりもなかったが

 

私は悟ってしまったのだろうか。

悟ってしまったから、友人の死をすぐに受け入れてしまえたのだろうか。

悟ってしまったから、外に出ない人間になってしまったのか。

 

悟るとは…

 

あ、でかい虫が部屋に入ってきた。とても気持ち悪い。しかしどこか安堵する。

 

参考:『彼岸の時間<意識の人類学>』蛭川立著か