星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

知覚と感覚の共有性質の虚構性

ご存知でないとおり僕は塾講師のバイトをやっているのですが、定期テスト前ということで明日日曜日に塾を開ける許可を室長にもらい、生徒の自習スペースを確保した次第です。

テスト勉強頑張ってほしいですね。

ということで以下本題です。

 

 

知覚報告(世界記述)において私と他者が交わることは以下の記事に記述した。

https://chili-jgn.hatenablog.com/entry/2019/08/29/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A8%98%E8%BF%B0%E3%81%A7%E4%BA%A4%E3%82%8F%E3%82%8B%E7%A7%81%E3%81%A8%E4%BB%96%E8%80%85

 

しかし交わるのはあくまで知覚報告の場合であって、「痛い」「疲れた」「寂しい」といった感覚的な文脈、すなわち心的な報告ではどうなのか。

感覚について分析することでそれについて考えたい。

 

まず、知覚と感覚の違い触れたい。

知覚とは五感で感じ取ったことであり、それが目に見えたものでも臭いでも騒音でも、対象がそこにある限り、同じ場面(視点)に立つことによって共有できる事実だ。

対して感覚とは、おおよそ「心」が感じ取った自分の身体状況であり、共有不可能な事実といえる。

なるほど対象があればそれが全く同じ感じ方をできなくても、同じに「限りなく近い」視点に立つことによって同様な知覚を感じ取れるが、感覚はそうはいかない。

感覚には不動の対象がなく、いくら同じ痛みを共有しようとしても、全く同じ状況での実験が不可能な限り、同様の痛みが共有できたかどうか確認しようがない。

結局感覚において人は孤独な感受を強いられ、心的な内界で閉鎖している。

 

外界の対象に関する知覚は他者から見て内容を持つが、内界に閉鎖する感覚は他者から見て内容を持たない。

ここでまた独我論に走ってしまうが、ここではその否定を試みる。

 

知覚は外に広がり、感覚は内で完結する。これは正しいのだろうか。

 

感覚の中でも痛覚について考えてみよう。私に棘が刺さったとき、私の痛みは他人には経験できないのか?

できないと否定するのは簡単だ。私が感じた痛みは私の経験でしかなく、他人が感じた痛みもまた他人の経験でしかないからである。

しかし、できると肯定することも簡単である。私に棘が刺さったなら、他人にもその棘を刺せば「キリで刺されたような痛み」を共有できるからである。

私たちは痛みについて共通の経験と知識を持っている。サボテンに触ったときの痛み、火に触れたときの痛み、氷菓を貪り食ったときの頭痛、あらゆる痛みの種類において共通の感覚を持っている。

 

本当に共通の感覚をもっているのか?つまり、私の痛みと他人の痛みは同じ痛みなのか?という疑問がここで現れる。

それは私と他者が見る「赤」が本当に同じ「赤」なのか、他人が見る「赤」は私にとって「青」と呼ぶ色である可能性もあるのではないかという問題と似ている。

 

この痛覚と色の問題について私が解を与えるならば、こう答える。

「他人は経験していない事柄についてもそれを報告することがある。サボテンを触ったことがない人がサボテンに触ると痛いと子供に忠告するように、テレビでしか見たことがない一部のオーロラをエメラルド色と決めつけて一般化してしまうように。この虚無報告によって世界は成り立っている。なぜなら誰も痛みなど経験したくないから、虚無の痛みを語るしかないのだ。よって、議論できない問題である」

 

実際に痛みは「〇〇のような痛み」と比喩で表されるし、色という知覚認識において色はRGBの構成で無限近く作り出せ、人はある範囲の似た色を赤や青と名付けている。 

 

「およそ」でしか語りえない厳密な共通認識ができていない議論はとどのつまり行き着く先は循環し、どこかで途中下車して終わりになる。

 

よって、痛覚について共通感覚をもつかどうかという議論より、痛覚が内なるものなのか、外なるものなのか、それについて議論することこそ進展があり、感覚の境界線があるのかという問題について今後扱っていきたいと思う。

 

知覚と感覚の共通性を排除し、次は知覚と感覚の境界性について考えるということ

 

終わり、閉廷!

世界記述で交わる私と他者

最近は塾講師のバイトに精をいれて多忙なため8月はあまり本を読めなかった。積読が溜まっていきます。

言言肺腑を衝くような本が積読の中に身を潜めていればいいのですが

では以下どうぞ

 

 

世界風景について以前紹介した。

https://chili-jgn.hatenablog.com/entry/2019/08/11/%E7%B4%94%E7%B2%8B%E3%81%AA%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96%E7%9A%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E9%A1%95%E7%8F%BE%E3%81%95%E3%81%9B%E3%82%8B%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%9C%8A%E9%AD%82

 

ここからさらに議論を深めたいと思う。

 

眺めというものは常に私が中心となっている。他人にも他人の眺めがあるということは日常的な感覚としてあるが、たとえ私が他人と同じ場所に立っても、私の視点から見た眺望には変わりなく、他人の眺めを見ることはできない。よって、そのような日常的な感覚は懐疑的な思考から否定される。

 

そもそも視点とはどのようなものか。

私から見た風景は決して単視点的ではない。私は「物」を見るが、その「物」はそのとき見えている表面だけでなく、裏面や側面も含んでいる。

あるビルを見たとき、正面からは長方形に見え、太陽の光が当たっているが、その裏面である影の部分には太陽の光は当たらない。そしてその事を私は想像することができる。

しかし実際に見えている訳では無いから、その想像が見せる像は「虚想」から成る。

 

私の眺めには大きく分けて実際に見える実像と、虚想から成る虚像の2つがあり、その2つは視点移動によって多様に変化する。その様はキュビスムを連想させる。

眺めを見る私の頭の中にはキュビスム絵画が描かれ、キュビスム的世界了解を許している。

 

ここで、どうしても議論は他者を排除してしまうことに気づいただろうか。今のところ私は私中心の眺望にしか触れていない。

他者からのパースペクティブ(遠近、眺望)について話そうとするとき、パースペクティブは私のものでも他者のものでもなくなる。

なぜならパースペクティブとは、誰でもその地点に立てば見えるからだ。

机の上に本がある。それを複数人が同じ視点で見たとき、同じ本が、同じように見える。一見これは他者のパースペクティブを認めることになるが、そうではない。

物は変わらずそこにある。それを人は視点移動や遠近から独自の見え方を獲得する。それでも物はそこにあり、見ている物は「机の上の本」でしかない。パースペクティブの可能性は、結局のところ物の要請にほかならず、私たちは物に服従して受動的に物を見る。

この文脈において、パースペクティブは私のものでも他者のものでもなく、誰のものでもなく全ての人のものなのである。

 

では他者が登場する場面はどこか。

それは見えているものに対する知覚報告をするときである。

ある問題が起きたとき、友人は「前の画面が見えない」や「幽霊が見えた」などと、自分が見えたものを報告してくるだろう。

その知覚報告がなされると、私の知覚と友人の知覚が交わることになる。

知覚報告がなされるのは大きく2つに分けられる。

 

①ある視点からの事実を伝えるとき

「見て!あそこに富士山が見える!」

 

②問題を示唆して改善してほしいとき

「見えないんですけど」

 

ここで確認すべきことは、①と②のどちらもが世界記述だという事だ。

2つの状況を心的記述だとは考えられないだろう。両者とも自分の視点位置があり、その視点は外に広がり、世界風景を叙述する報告である。

 

私と他者は世界風景について言語的に交わる道筋が見えてきた。

 

独我論からの逃亡が始まる。

彼岸の時間《意識の人類学》の論評

この著書は、独特な宗教儀礼、ドラッグ、多様な宗教観、シャーマ二ズムなど一般的にあまり知られていない文化をフィールドワークや文献研究した著者が、その根底にある時間概念をテーマに、意識とは何かを考察したものである。

 

農耕文化は毎年同じ時期に同じ作物を育てるが、そこに作物の発展はなく、ただ同じことを毎年繰り返すのみである。その繰り返しは農耕文化の人々が循環する時間感覚を持っていると考えられる。

 

また、著者は幻覚作用をもたらす植物を宗教儀礼で用いる南米部族を紹介しているが、そうして超存在や精霊といった神秘存在に幻覚世界で迎合することは、現代では忘れられつつあるアニミズムへの回帰という意味で、反転する時間と考えている。

 

現代での時間感覚はどうかというと、上記で述べた反転する時間とは対照的に、前進する時間と考えられる。資本主義が支配する現代は、各々が利益のために推し進め、競い合い、常に前へ向かっているためだ。そこに終わりはなく後退もない。

 

そしてこれらの時間感覚の違いは、異文化を異常だと決めつけることに繋がる。私達は時間は進むものだと考えているが、そう考えない人もいる。しかし、時間感覚という主体中心かつ客観視が極めて難しいほどに浸透した感覚は、常にイデオロギーの違いを、そこに違いがあると了解しさえすれど、理解を難しくする。それは意識のレベルで根付いたバイアスといえないか。「時間」を全人類の共有物としてみなしたとき、意識の深さが我々を覗き込む。

タイムスリップについての草稿

原稿用紙84枚分の小説を3日で書くという個人的な偉業に気分が良いので、草稿を残します。

 

 

タイムスリップができたとしよう。僕は過去へ行くことができる。恐竜が好きだから白亜紀にでもいって、友達になれそうなストルティオミムスに会いに行こう。

 

さあ着きました。

 

このとき僕の時間軸は過去を示すのか現在を示すのか、僕は恐竜の世界で1人悩む。

 

確かに過去に来た。でも僕はタイムスリップする前からタイムスリップした後の地点という現在にもいることになる。

 

どうしたものか、過去にも現在にもいる訳分からない状況に陥ってしまった。

 

物理学的に考察すると、時間の矢が示すように時間は進むしかない。それでは僕は現在にいることになる。

つまり過去の世界に<現在>いるということだ。

世界には過去と現在があるが(未来は普遍的決定論の話に移りそうなので今は避ける)世界は一つしかないから、過去の世界と現在の世界の両方に存在することはできない。

 

しかしタイムスリップできるほどの技術を持っている時代だ。一概にそうとは言えないかもしれない。

 

もう少しタイムスリップについて考察を巡らすと、相対論から時間の逆行は不可能と結論づけがまずされる。

高速で移動すると相対的に時間が遅くなるが、高速が光速に達したとき、時間の進みは0になる。特殊相対性理論からの導きだ。

しかし、光速を超えることはできないとも数式的に導き出されている。

最近、東京大学の研究グループが量子力学から熱力学第二法則の導出に成功したと一部で話題になっているが、これについて量子力学に詳しい友人に聞いてみたところ、永久機関が不可能とされる熱力学第二法則量子力学によって導き出されたところが面白い、と言っていた。

 

永久機関は見方を変えると、過去と現在を行き来することで燃料を消費しない機関、と言えないだろうか。(横暴か?)だとすると時間の逆行が不可能なことが際立つ。

 

それじゃあそもそもタイムスリップは不可能ということになる。

この結論を哲学的に考察してみる。

 

タイムスリップはそもそも時間の逆行なのか?過去の世界と現在の世界が相容れないとして、僕が白亜紀にタイムスリップしたとき、その時間軸は現在となろう。それは時間とは今の連続だと考えられるからである。過去に立つことはできない。今いる時間から見た後ろに過去があるからだ。

 

これは以前時の流れについて考察した記事https://chili-jgn.hatenablog.com/entry/2019/08/04/%E6%99%82%E3%81%8C%E3%80%8C%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF-%E7%A7%81%E3%81%A8%E6%99%82-で、単視点的世界了解(独今論)として説明した。

時間が現在の連続なら、タイムスリップは時間の逆行というよりは時間の矢に従ったただの地点移動だと考えられないだろうか。そういう意味ではテレポーテーションに近いかもしれない。

 

また、複視点的世界了解を持ち出したら、今度は「態度の違い」「見方の違い」となり、時間の逆行という仮にも物理的な現象から遠ざかることになる。

 

どういうときに時間は逆行するのだろうか。

おそらくそれは、時間軸の移動でしかありえない。それは多世界解釈であり、シュタインズ・ゲート風に言うなら世界線の移動だ。

 

電車の路線が変わると行き先が異なるように、世界線が移動するとき、軸と軸の狭間ができ、世界の行き先も変わる。そのときにできる狭間こそ時間の逆行を可能にする。

 

つまりはタイムマシンを作るには世界の移動が必要だということになる。

 

多世界解釈については、マルチバース宇宙論という新しい宇宙論が詳しく説明してくれているので、いつかの記事で紹介しようと思う。

純粋な実在論的世界を顕現させる世界霊魂

この記事を作成するにあたりまず初めに述べなければならないことは、ここで書かれていることが『心と他者』(野矢茂樹著)の第二章(全第三章からなる)の要約、思考整理という役割を持っており、この記事において私の考えは5%にも満たないということである。そして、ここで書いた野矢氏の見解はそれで終わりではなく、第三章で改められることを念頭に入れてもらいたい。

 

論評は全て読破した上で行いたいが、読破する上で内容の整理を行わないとただ文字を読む作業になってしまうため、ここで一つまとめ、文字に起こした。

 

野矢茂樹氏の独我論に対する否定の哲学的実践を少しでも分かち合いたい。

 

独我論への道

「手をあげる」と「手があがった」という表現には心ある描写と心なき描写という違いがある。

私が手を上げたのか、私の心は関係なくただ手が上がったのか

私が私のことを説明するとき、心ある描写をせざるを得ない。というより、確実にそうするだろう。私には心があり、それゆえに「手をあげた」という実感があるからである。

 

しかし他人に対して心ある描写ができるかというと、そこには待ったがかかる。他人に心ある描写を適用するということは他人に心を認めることになるからである。

私は私の心を実感する。しかし私は他人の心を実感することはできない。大森荘蔵氏や野矢茂樹氏は「痛み」を例にそれを実証しようと試みている。

私の感じる「痛み」は「痛い」という感情を伴う。対して、他人に関して言えば、「痛そうだな」と思うことはあれど、「痛み」を感じることはできない。

 

私は私の心を実感するが、他人の心を実感できない。そこに心というアニミスティックなものは私のアニミズムであり、他の誰でもない私だけのものだという独我論への道が開かれる。

 

独我論を否定するために

ウィトゲンシュタインは人々の「魂への態度の違い」大森荘蔵は「アニミズム」の問題という考え方で、他我論に向かおうとするが、それすらも「私の問題」といえないか。今一度独我論を否定するため(私自身の立場)、独我論について考える。

 

野矢氏(氏はあくまで独我論を否定しようとする立場であることを念頭に)はある犬に対して、「あの犬は黒い」と「あの犬はこわい」という記述の差異を取り上げて、独我論を説明する。

 

「あの犬は黒い」と「あの犬はこわい」は客観と主観の違いがある。その犬に対するただの性質を述べたのか、その犬に対する感情を述べたのか。

しかし、「あの犬は黒い」という犬の性質も見方によっては違う色に見える。夜に見た犬だから黒く見えた、一瞬みて逃げただけだから影のように黒く見えた、光のあたり加減で茶色の犬が黒く見えたなど、どうとでもいえる。

そのとき、「あの犬は黒い」も主観的な記述となり、そこに客観性はなくなる。まさに独我論への道だ。

 

そうはしても、「あの犬は黒い」と「あの犬はこわい」という記述には大きな違いがある。

黒さは犬から離れればそこで終わりだが、こわいという感情は犬から離れても残る。それは映画を観終わったあとの余韻や、大きな仕事を成し遂げたあとの達成感と同じである。

 

ここに独我論から離れる道が開かれる。

 

感情の世界現象

スティーブン・キング原作のミストのような終わり方をする映画(詳細は控える)を観た後に残る感情は様々であろう。虚しい、悲しいが主だろうが。虚しいと感じた人は虚しい世界に一人たたずみ、悲しいと感じた人は悲しい世界に1人たたずむ。

そこには十人十色の感情があり、十人十色の世界風景がある。

わかりやすくいうと、親や親友の死を経験した次の日に世界は何色に見えるか、ということだ。重度のうつ病でもない限り、悲しみ、虚しさ、無力感、色でいうと灰色といったところか。

対して、同じ日に幸せなことがあった人がいたとする。その人にとって世界は何色に見えるだろうか。観測は難しいが。

とにかく、感情は単なる心的現象ではなく、世界現象といえる。感情は世界の風景を変える。そのとき、私の心だけが唯一のものであるという独我論は否定されないだろうか。感情がもはや心的現象ではなく、世界現象、つまり世界に開かれているからである。

 

私は世界霊魂を持っている

独我論的世界では、主観性と客観性、内と外という区別はなくなる。それは心的現象すらも世界現象としてしまうことを意味してはいないか。

こわい犬が現れて、「逃げよう」と思考したとき、こわいという感情に彩られた世界と、逃げようという思考に彩られた世界が立ち現れる。

独我論的世界(私だけの世界)では、他者に心があることを否定する上で、同時に、私だけの世界風景があることを了解してはいないだろうか。そして、私の心が世界に浸透するとき、感情と思考は心的現象から世界現象へと変貌する。

 

ウィトゲンシュタインの草稿の一つ、

「私の表象が世界であるように、私の意志は世界意志である」

これは独我論が向かっている方向を端的に示していると解釈できる(野矢氏の解釈)

「水を飲みにいく」という意志は、<世界=私の世界>のただ中で展開される「世界現象」である。

心的現象も意志も「世界現象」となるのであれば、独我論のいう「私の心」はもはや世界に拡がり、そこにあるのは「私の心」ではなく、「私の世界」であり、「無心の世界(「純粋な実在論」的世界)」である。

 

「世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。」

(ウィトゲンシュタインの草稿による)

 

参考:『心と他者』野矢茂樹著 中公文庫

 

ラプラスの魔物が掴めなかった自由

超自然的な自由意志による自殺について

https://chili-jgn.hatenablog.com/entry/2018/09/10/

という記事で「自由」についてひとつの結論を出した。

 

自然的な死も、自由意志による死も、害悪からの自由という、同一の自然法則にしたがって生ずるのである。

 

「死」という生き伸びようとする動物の本能に反する行いでさえ、自然法則に従う。

 

では、人間は自然法則に従って生きる存在なのか、人間は自然(自然科学が扱うものの秩序)に介入することはできないのか。

そういった問いが立てられる。

 

そもそも自由とは何か。

普通自由を考えるとき、何かからの自由というその「何か」を考えなければならない。何かとは、束縛するもの、つまり不自由のことだ。

 

自由電子という電子があるが、これは「原子からの束縛力の最小のもの」という意味で、自由に飛び回れるわけではない。結局は原子からの自由でしかない。

 

そして電子の話に関連付けると、人間は原子や分子でできており、一種のモノの塊といえる。

これは人間が自然的存在であり、自然法則に従う存在であり、外部から自然に介入できないことを示している。

 

しかし、ここで日常的な感覚を取り戻してみる。私が煙草の火を消す。あなたが私のシケモクに火をつけて吸う。

これらの行為は火の点滅という自然的状態に介入したことにならないだろうか。

 

人間は自然に介入できる。

 

そう結論づけたいのは山々だが、そうは問屋が卸さない。

物理学的に記述される人間(自然法則に従うしかない人間)と、日常的な感覚をもつ人間(自然に介入できる)との間にはまだ溝がある。

 

どの観点から考えようとも、人間が物理学の記述に乗っ取る限り、自然法則から抜け出せないのだ。

人間には心がある?では心とは何か。

人間には意志がある?では意志を示してみなさい。

どちらも現代における未解決問題であって、その実在性を確保することは難しい。

 

では自然法則からの自由という、物理から離れない観点で考えてみよう。それは「しないでもいられた」状態だ。

私は手をあげることもあげないこともできる。

私は歩くことも歩かないこともできる。

そう、私には選択の自由がある。そして実際に手を上げ、歩かないことを選択する。

 

これはかなり自由な選択に思える。しかし、「しないでもいられた」状態にも穴がある。それは、選択の自由があったことを示せないことだ。

私が手をあげ、「手をあげないこともできたが、あえて手をあげた」と言うのは簡単だが、これまた示しようがない。

 

眼目に写るは決定された世界のみであって、可能性の世界は非現実的なのだ。

ニュートン古典力学が予測し、ラプラスの魔物が示した「普遍的決定論」の世界がここにある。

我々は世界のシナリオに従うしかない。我々に自由などない。

 

しかし、現代は幸いにも非決定的な世界を持っている。それが量子力学だ。

量子力学では素粒子の状態は非決定的で、観測されるまで定まらない。これは自由を考えるのに使えるのではないか。

 

先に言ってしまうと、答えはNOだ。

 

決定論的な量子力学の世界において、その非決定論的な状態を自由といえるかどうかはまた別の話になる。

電子のスピンの方向が、私が観測することで定まるとする。それは私が観察したときに決まったのであり、私が自由に決めたわけではない。

結局のところ、量子力学の非決定論世界も自然の側で自律している。

 

ここまで考えてきた結果として、自由に行為するためには、自ら決定できなければならない。

ラプラスの魔物が作り上げた世界シナリオから脱却しない限り、私たちの決定は自然法則に依存する。

 

しかし、とここで声を上げたい。

世界シナリオは完成しているのか?と

落ちていく枯葉とその着地地点をみて、ああだったかもしれない、こうだったかもしれないと想像を巡らすことが人間にはできる。

そして、ある物体の運動に対しても、その運動が何を目的とする運動なのか思惑することもできる。

そんなフィクションを人間は生み出せる。

 

ラプラスの魔物は、今私がこの記事を書いていることを予測できるだろうが、どんな目的で、もしくはどんな気持ちで書いているかはわからない。それは物理学的記述ではないから。

 

現実は一通りだが、私たちが生み出す虚構(フィクション)はその一通りに様々な意味を与える。

そして私たちはその意味の中に生きる。

 

世界シナリオは完成どころかスカスカだ。ノンフィクションの中にフィクションを生み出す「自由」を、人間の創造力を見落としている。

 

参考:『哲学の謎』 講談社現代新書 野矢茂樹

 

 

時が「流れる」とは-私と時-

「時が流れる」とはどういうことか

そもそも流れは川の流れのように速さを表す言葉だから、それを時に当てはめるのはおかしい。

時が「流れる」とは比喩的な表現ということになる。

 

ではそのような比喩的な表現を用いて我々は時の何を伝えたいのかというと、時間が過ぎ去るとともに、現在が過去になり、未来が現在になるということを言いたいのだろう。

 

時の流れについて、野矢茂樹氏の著書から三視点の世界了解を用いて考えてみる。

 

無視点的世界了解

ここで、過去から未来まで、始まりから終わりまでの事柄が全て書かれた『宇宙年表』というものを想定する。

この年表が現実にあったとして、そのとき「時の流れはあるか?」という問を立てると、答えは「時の流れはない」と言える。

なぜならそれはただの年表に過ぎないからであり、速さも何も無いからである。

 

独今論(単視点的世界了解)

現実にあって宇宙年表にはないものがある。それは「いま」だ。

年表の出来事の羅列をみても、私たちの現在位置は書かれていない。宇宙年表は世界史的な年表であって個人史は無視されるからだ。

むしろ私たちは、宇宙年表の上で「いま」の連続を過ごしている。

今の「いま」、1秒後の「いま」、1時間後の「いま」、1年後の「いま」と、いまは移動する。

 

もちろん宇宙年表は現実にはないので、宇宙年表をとっぱらいリアルな世界に注視して「いま」を考える。

それでも「いま」の連続に変わりはない。

むしろ、過去のことは今からみた過去、未来のことは今から予測した未来といった具合に、私たちは「いま」という地点に依存してしまう。そこに時の流れは実在しない。結局今が世界の全てである。

この独我論的な発想を永井均氏は独今論と名付けた。

 

複視点的世界了解

人は今から過去を思い出すだけではなく、過去から過去を思い出すこともできる。

「昨日の時点であの出来事は2日前のことだった」

同様に未来から過去を思い出すこともできる。

「明日であの出来事は4日前のことになる」

 

独今論は「今から思い出された過去」という対象のみを視るが、複視点では「思い出している過去」「予想される過去」という主体的な視点で時の流れを考えることができる。

 

さらに、過去の意味を考えると複視点的世界了解は際立つ。

例えば、1週間前に熱が出たことを、今は「熱が出たなぁ」ぐらいのただの出来事にしか思わないかもしれないが、過去には「辛い助けて」と涙ぐむような悲惨な出来事だったかもしれない。

 

視点の切り替え、意味の違いという2つの複雑な要素が複雑に絡んだ複視点的な見方のとき、時の「流れ」は見えてくる。

 

時の流れ

人は自然と時の流れを受け入れているが、複視点的世界了解では主体的に時を感じていることになる。これは時の流れが私的体験であることを意味する。

時は私的なものなのだ。

こうなると、私が感じている時の流れと、あなたが感じている時の流れは同じだと言えなくなる。

私が「時の流れってどんな感じ?」と聞いてすぐ答えられる人はそうそういないだろう。いたとしたら私的言語のかなりの使い手で、かなり自分の世界に入り込める人ではないか。

そう、時の流れは私的体験であり、私的言語でしか記述されえない。時の流れに関して、私と他人は断絶され、時の流れの意味は自閉する。

 

楽しいときに時が早く進むと感じるように、精神展開薬により時間感覚が狂うように、人工衛星の時計は狂うと特殊相対性理論が示すように、時の流れは一様ではない。

 

時の感覚と物理法則がそれを物語っていた。

 

時が「流れる」という比喩表現は、流れが一定であることは実際にはありえないと、時の不安定性を無意識的に反映した文学的な表現だったのではないか。

 

そして、辻褄を合わせるために私達は時計を見て生きる。

私の時間とあなたの時間は違うから

 

今は午前5:35だ…、今日は午後に国語と理科の授業をしなければならない。