星野メトメの本棚

詩とか小説とか勉強研究とかをこの本棚に置いときます。存在を知ってくれただけでも本当に嬉しいです。

学校と塾の存在意義

学校というものは、そもそもは各家庭で受けるべき教育を親の負担を減らすために必要となるといえますが、その考えはもう古く、今では家庭での教育よりも高度な教育が学校に要求されています。社会生活がそれほどまでに複雑な要求をするようになったためです。

 

そもそも教育というのは、ヨーロッパにおいて最初は貴族のみが享受できるものでした。それは貴族のみが社会の価値ある構成員で、他の者は割り当てられた仕事をするしかなかったからです。

 

その後、社会の境界は次第に広がり、産業の発達とともに労働者にも教育が必要となりました。そして、労働階級の発言力は歴史と共に大きくなり、教育は労働のためだけでなく、子供たちに人間の文化全体を学ばせるためという、今につながるより大きな理念が完成しました。

 

教育には、子供に効率よく労働させる知識や技術を身につけさせるためだけではなく、子供をその国の文化を共有し発展させる一人の仲間にするという目的が加えられたのです。

 

しかし、この教育改革は大きな問題も引き起こしました。

 

教えるべき教科の多様化、子供への負担の増加、学校という一つの大きな社会での共同などです。

 

学校教育において、家庭というのはその子の学校での態度、教科への向き合い方を決める背景にある重要で無視できないものですが、だからこそ家庭は先に挙げた学校教育の諸問題を生む原因にもなります。

 

なぜなら、学校に入る前の家庭教育で他人に関心を持てるように訓練がされていれば、学校というより広い社会集団の中でも、意識せずとも巧妙に立ち回ることができますが、そういった準備ができていないまま学校に入る子供も当然にいるからです。

 

そして、学校という社会生活にうまく適応できない子は、学校に不信感を抱き、勉強すること、他者と共同することに反抗し、学校を嫌いになります。

 

私は塾講師のアルバイトをしていますが、今心配な子は、学校が嫌いで、勉強が嫌いで、学校の周囲の同級生も嫌いで、だけどなんとか学校生活をうまく送るために必死に自分を取り繕って生活しているある生徒です。そしてこの子は4月から中学三年生、つまり受験生になります。それでも勉強を全くしないから、とても心配しています。

 

一度この子と数時間も面談して、いろいろなことを教えてもらいました。そして小学校低学年でのその子の生活は、やはり辛いもので、保健室に通う生活、つまり小学校に入ってすぐに学校での社会生活がうまくいかない経験をしていました。

 

ほかにも親が離婚していること、離婚しているのに両親はなぜか同居しているという複雑な家庭環境、そして、その子自身も小さな女の子にかかわらず仲が悪い両親の喧嘩などから妹を守らなくてはならない立場。

 

本来ならばこういった子に、親の代わりに他者への関心を持たせ、社会生活へ適応できるような手助けをするのは教師の役割です。最初に言ったように、学校教育とは家庭教育の代行のようなものですから。

 

しかし、現状、そのような役割をこなせている教師が数多くいるとは思えません。むしろそんな教師がいるのか疑問に思います。

生徒から学校の様子を聞いてみても、正直言って学校の荒れ具合がひどくて、教師側もそれどころじゃないのだろうと思っています。これに関しては、私の塾の近隣の学校やそもそもその地区の治安が悪いせいかもしれませんが。

 

どんなに学校がひどい有様だろうと、親は子供に勉強することを望み、学校、そして塾に通わせます。はい、ここで塾という存在が出てきます。そして私はこの塾という存在が今や非常に大きなものになっていると考えています。

 

それは単に勉強を教えるだけではなく、学校でも家庭でもない第三の教育現場だと考えているのです。

 

勉強が好きじゃないのに親に通わされているという生徒は多くいます。その中でも、しっかり勉強をしてくる子や、受験生になって危機感を覚えて勉強を始める子はもちろんいますが、先に挙げた子のように、勉強を全然やらない子もいます。そんな子に勉強の関心を持たせようとすると、どうしてもその子の人生に深くかかわり根本的な解決を図ろうとしないといけません。

 

その子は成績は悪いですが、決して頭が悪いわけではありません。むしろ、周囲への目の向け方、人生観などを聞くと、非常に達観していてよく物事を考えていると感心することが多々あります。

 

しかしその子は、自分のことを頭が悪いと決めつけていて、勉強に対して消極的です。

これは完全に今までの教育の失敗だと私は思います。

 

教育にとって最大の困難が生じるのは、子供の限界によってではなく、その子供が自分の限界だと思うことによってなのです。

 

その子に自分の能力の限界を決めつけさせてしまった、彼女が今まで受けてきた教育、私はそのことを考えると、元々嫌いな学校が、余計嫌いになりました。

 

私が学校を嫌いになった理由はまた別の時に書こうと思います。一人の教育に携わる者として

 

長くなるので1度ここで終わります

 

参考 『学校と教育』 アレフレッド・アドラー