超自然的な自由意志による自殺について
超自然哲学者は、自由な意志の存在の証明のためにしばしば自殺を引っ張り出す。
自然的法則、つまり自然必然性や感性的諸動機から独立する手段として人は自殺できるのだと。その時、人間は人間を縛る茨から肉体的苦痛をもろともせずその茎を千切り脱出し、穴と血だらけのままその場で安らかに死ぬ。
少なくとも、ヤコービ、フィヒテ、ヘーゲルなどはそう考えていた。
この考え方では、人間は自己保存欲に反抗することができる、つまり、人間はあらゆるもの(生命ですら)を捨てる能力をもつ独創的な天才ということになる。
しかし、旧約聖書の外典『シラク書』のなかで、「ブドウ酒がない生は何であるのか?」といわれているように、人間が本質的に生命に数えるものを失ったため、または失うことを恐れたために死のうと思った時、人間は自己保存欲に反抗しているのではなく、一致して行動している。
死は毒に対する毒として、待望された医薬である。
自己保存欲と矛盾した超自然的な自殺が達成されるのは、その自殺に根拠がないときである。(おそらく不可能なことだが)
「私は死ぬことを欲する」という命題は単に「私はもはや生きることができない、私は死ななければならない」という不本意な大前提からの任意な帰結に過ぎない。
生きようとすることと死のうとすることは、太陽と月のような、決して邂逅することがない大きな時空の割れ目を持ちながらも、互いに同一の力が働いているという関係にあり、一般的に肯定的な生の日と否認的な死の夜という本質的に同じ環境もたらす同一の存在者と考えられる。
あらゆる自然必然性を超越する意志の自由を持っていることの証明は、ただ人間が生だけでなく死をもまた捨てることができるときであり、すなわち死にたくない場合に死なないことができるとき、したがって、死と不死とがもっぱら人間の意志に依存する時である。
しかし、人は自殺する。自殺未遂をする。熟知されているように、死を捨象することはできない。
死という人間の自由の最高の行為もまた自然必然性の限界内から抜け出せず、人間の意志は単なる自然の模写にすぎない。
死は生来あらゆる諸害悪からの自由であり、生が堪えがたい害悪となっている者にとっては、害悪の自由が意志の自由なのである。
自然的な死も、自由意志による死も、害悪からの自由という、同一の自然法則にしたがって生ずるのである。
フォイエルバッハ著、船山信一訳