星野メトメの本棚

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ユング心理学によるサイケデリクスの無意識仮説

サイケデリクスについて研究した論文はいくつかありますが、多くは医学的な見解であり、人類学や心理学のような視点からみた論文はあまり見かけません(もちろんあるにはあります)

 

数少ない学際的な心理学的検証では、精神病理の寛解、薬物依存の解決、うつ病不安障害の改善といった良い結果が出ています。(Grob,C. S.; McKenna, D. J.; Callaway, J. C.; Brito, G.S.; Neves, E. S.; Oberlaender, G.; Saide, O. L.;Labigalini, E.; Tacla, C.; Miranda, C. T.; Strassman,R. J.; Boone, K. B., 1996)

相模女子大学の石川勇一教授の論文『アマゾン・ネオ・シャーマニズムの心理過程の現象学的・仏教的研究』より引用 

URL:http://www.sagami-wu.ac.jp/ishikawa/_src/35/amazon20neo20shamanism20paper20ishikawa.pdf )

この論文の価値は、変性意識体験を一人称的になりつつも可能な限り客観化して記述しているところにあると思います。

 

DMTとMAOIの力で体験される世界がどのようなものなのかを詳細に知ることができる貴重な資料だと考えています。(詳しくは調べてませんが、中にはサイケデリクスを危険視するような論文があるかもしれないということは一応書いておきます)

 

さて、そんなサイケデリクスですが、精神展開薬とも訳されるように、今まで眠っていた意識の底の底にある、ある種の神秘的で自然な「何か」が展開されるような作用を持ち合わせているように感じて仕方がありません。

 

人間の精神とは切り離された神の世界を垣間見れるという可能性もなくはないですが、神は人間が創り出したものだという近代的な考えのもと、神の世界=精神、生命、魂、気息、spirit、soul、プネウマ、プシュケーといった生命に関連した概念が創り出していると推測して、精神展開薬がもたらす共通の世界、イメージがどこから生まれるのか考えてみたいと思います。

 

サイケデリクスによる幻覚の源流をたどることは私が今一番興味を抱いている謎です。

 

まず、「幻覚」が人間の意識と切り離せないものだとするならば、その源泉は無意識、それもユングの考えを用いるならば、無意識の中でも最も下層に位置する普遍的無意識(=集合的無意識)にあるのではないかと考えられます。

 

ユングのいう意識の層というのは、以下の図を参考にしてください。

f:id:nito5517:20180427145351j:image(出典『ユングの世界へようこそ』 http://www.j-phyco.com/category1/entry5.html )

 

意識はイメージがつくかと思いますが、個人的無意識というのは、コンプレックス(心的複合体)の棲み処と考えるとわかりやすいと思います。

心理学ではコンプレックス=劣等感ではありません。劣等感はその一種で、無意識にある複雑な心理体系のことをコンプレックスと総称します。

私たちの無意識下では、抑圧された劣等感や優越感など、意識には表れない複雑な心理が息をひそめながら表出するのを待っています。

 

このコンプレックスは、私たちが油断するとそれを狙っていたかのように現れます。

 

TOKIOのメンバーが女子高生に無理やりキスしたことが話題になっていますが、私としてはセクハラはどうでもよくて(おい)、酒に酔って緩んだ意識から欲望という一種のコンプレックスがここぞとばかりに出てきた、その事実の恐ろしさを実感しています。

アイドルという身分、セクハラをしたら大問題になることくらい本人もわかっていたはずでしょうが、ストレスが溜まっていたのか、したくてもしてはいけない、考えてもいけない、そんな抑圧していた複雑な性心理、まさにコンプレックスという名の悪魔が顔を出してしまった。私はそう解釈しています。(この辺りはフロイトが考えた無意識と重なります)

 

個人的無意識に潜むコンプレックスとはもちろん性的なものだけではなく、大人しいと思っていた人が突然攻撃的になったり、「人間は皆薄情だ」などという人自身が実は薄情だったり、その人の認めたくない側面、自我が勝手に抑圧する側面の数々です(ここが性に重きを置いたフロイトユングの違い)

 

私たちの無意識では自我とコンプレックスが常に葛藤しています。

 

この葛藤の時に重要となる抑圧という防壁が崩れてしまった人をユングは二重人格(解離性同一性障害障害)だと考えました。

 

ここで一度、麻薬というものについて考えてみます。

一口に麻薬といっても、興奮剤、抑制剤、幻覚剤と大きく三つに分類できますが、アルコールは抑制作用と興奮作用の両方を兼ね備えています。

また、興奮剤も抑制剤も、様々な神経系に影響を与えますから、興奮するときもあれば抑制されるときもあります。

酒により抑制系中枢神経に抑制効果が働き興奮してしまった、それが結果的に自我の統制を緩めてコンプレックスの表出を促す、今回のセクハラの件もおそらくそういうことなのではないかと思います。

 

しかし、幻覚剤(サイケデリクス)は全く異なります。

 

精神の展開、特別な体験をもたらすもので、興奮剤や抑制剤とは働き方が全く異なるのです。

 

そして無意識の話に戻ります。

 

個人的無意識の下に集合的無意識がありますが、この意識の最下層がどうなっているのか記述するのはとても難しいです。

そこで先に結論を言ってしまうと、私は興奮剤や抑制剤が個人的無意識に影響を与えるものだとすると、サイケデリクスは集合的無意識に影響を与えるドラッグなのではないかという仮説を思いつきました。

 

ユングがどのようにして集合的無意識という考えにたどり着いたのかというと、多くの臨床経験だけでなく世界各国の神話研究によって、元型(アーキタイプ)という普遍的な共通点を見つけ出したことによります。

 

そして、同様に神話と、サイケデリクスでみえるイメージには多くの共通点があることに気が付きました。

 

神話の例としてキリスト教よりも古いゾロアスター教(B.C.10~6?未だ不明)とオルフェウス教(B.C.6頃)の神話をみてみます。

 

ゾロアスター教の神話は、善神と悪神の戦いにより善神が勝利し、その後最高神アフラ・マズダーによって最後の審判が行われるというものです。

 

ここで重要なのは、キリスト教よりはるかに古くから、最後の審判により人々が天国と地獄に送られるという考えに、「神」と「生と死」が強く意識されていることです。

昔から人間は「死」を前にしながら人によっては目を背け、人によってはなぜ死ぬのかを説明しようとし、人によっては死後の世界に救いを求めました。そして神様までも創り出しました。

「生と死」というのは人間が直面する大きなテーマであり、意識せずとも常に心の奥底に潜んでいるのかもしれません。

 

この「神」「生と死」というのはアヤワスカの体験を記述した石川教授の論文に、地獄体験、走馬燈、女神と精霊の祝福、天界体験として表れています。

そもそもアヤワスカを使ったシャーマンは死ぬ、死んでいるからこそシャーマンであると考えられています。

 

さらに、善行が多いと天国に行き、悪行が多いと地獄に行くという、善悪の考え方も、石川氏が体験した、生後の悪意ある行為、拒否的な言動すべてが見透かされるという感覚に表れています。

 

次はオルフェウス神話です。

竪琴の名手オルフェウスが、妻のエウデゥリケが毒蛇に噛まれて死んでしまったことを知り、死者の国に行き、妻を生き返らせるよう神様にお願いしたが聞いてもらえなかったところ、竪琴を披露して神々を魅了し、生き返らせてもらえることになった。そして地上に帰る途中に後ろを振り返るなと命令されるが、本当に妻がついてきているのか心配になったオルフェウスは地上につく直前に後ろを振り向いてしまう。すると妻は死者の国に吸い込まれ、オルフェウスは地上で無残な死を遂げるというもの。

 

ここにもやはり「死と再生」の描写があります。

 

また、オルフェウス教の教義は、人はもともと天国の魂(プシュケー)だったが、ある時、プシュケーは悪いことをして地上に落とされ、肉体に閉じ込められた。とし、肉体を穢れたもの、心を神聖なものとして扱いました。

この考えは西洋神話・西洋哲学に通じるもので、肉体を穢れたものとして考えたことが興味深いです。

 

なぜ興味深いかというと、次に引用した石川教授の論文の一節にあります。

 

『ー神は祈りに答えて下さったのだ。心の底に溜まっていた否定的な感情を浄化し、悪業を自覚して懺悔すること、徹底的に謙虚になること、心の汚れを浄めること、これを一気に濃縮して体験したのであった。』

 

これは、「体は魂の墓場」であり、善行を積めば穢れが消えてプシュケーになるという考えに通じています。

サイケデリクス体験を通して、脱魂し、肉体という名の牢獄を抜け出すという試みに至ったのでしょう。実際にこの後石川氏は脱魂し、天界へ行きます。

 

またオルフェウス神話に出てくる毒蛇も、キリスト教やサイケデリクスのイメージに近いものが出てきます。南米の部族が描く絵には蛇のようなうねうねした生き物が多いという事実もあります。

 

ちなみに古事記イザナミイザナギの話はオルフェウス神話に非常に似ているため、西洋に限られた話とも言えません。

 

東洋哲学では、この世を

現象界(感覚でとらえられ、変化する、言葉で表される世界)と

真実在(感覚でとらえられなず、変化せず、言葉のない世界)の二側面でとらえることが多いです。

 

注意すべきは、この場合の真実在とは別世界のことではなく、現象界と真実在は同じ存在、そして真実在とは言葉をもたない、概念のまとまりがない私たちの世界だということです。(サルトルの『嘔吐』というタイトルの理由、サルトルは何げなく真実在をみて嘔吐した)

 

この真実在は、東洋ではほかにも名称があり、「無」「空」「道」などです。

 

これらは瞑想という修行を積むことで見える世界なのですが、驚いたことに、石川氏はアマゾン・ネオシャーマニズムの体験後、ミャンマーでの瞑想修行を通して、アマゾンでみた真実の世界を再び見ることに成功しています。

 

アヤワスカによるシャーマニズムも、瞑想も、手段は違えど、両方とも心の奥底にある集合的無意識をみることで、普遍的なこの世の真実にたどり着くことができるのではないかと、私はいろいろと考察しながら感じました。

 

疲れた、推敲してない乱雑な文章で申し訳ございません。以上です。